教養のある人間になりたい
こんにちは、hanaです。
先日のつぶやきにて『ポスト資本主義社会』について投稿させていただきましたが…本当に衝撃的な一冊でした。
さて、皆さんの多くは、ドラッカーの著作といえば『マネジメント』が一番最初に思い起こすかもしれません。
私も高校時代に読みました。笑
この本は…今、この時代だからこそぜひ皆さんに読んでほしい一冊です。
なぜ、いま『ポスト資本主義社会』なのか
まずはこの一節を読んで見てください。
我々がこの転換期にあることは明らかである。この転換は2010年ないし2020年まで続く。しかもこの転換は既に世界の社会、政治、経済、倫理の様相を大きく変えた。1990年に生まれたものが成人に達する頃には、父母の生まれた世界からは想像すらできないものになっているはずである。
ドラッカー『ポスト資本主義社会』、序章より。
1993年に執筆されたものでありながら、当時の技術や社会情勢を鑑みてみると、うっすらと鳥肌が立ちました。
2020年、予想外のことがたくさん出て来ましたね。そして、世界の枠組みが大きく変わろうとしています。
さらに、ドラッカーによると、ポスト資本主義の社会は知識社会、そして組織社会へと向かっていく…というのです。それぞれの単語だけでは想像がつきづらいかもしれませんが、読み進めていくうちに、自分自身のなかの思考と、本書の本文がうまく混ざり、自分なりの答えを得られていくような、そんな読書体験をすることができました。
おそらくそれは、この時代だからなおさらなのだと思います。それでは、簡単に内容を振り返っていくこととしましょう。
知識社会と組織社会の登場
知識社会とは、「専門知」化された知識により、各々が各分野の専門的知識を磨くに至る社会のことを指します。テクノロジーの進歩により、知識を共有しやすくなった世の中であるからこそ、皆がそれぞれの分野において専門化できるものであることを示しています。
そもそも、この専門知は、いわゆるプラトン期の「一般知識」ではなく「テクネー」と呼ばれるような技術的・生産的知識を指します。
私達は、それぞれの分野のエキスパートとなることがどんどん進んでしまったということです。結果的に、学者も弁護士も、あるいはビジネスマンも、その領域の知識しか持ち得ていれば良い、ということとなります。こうして、知識の主流は、人間とはなにか、能く生きていくためにはどうするのか、というような精神的な学問や一般的な教養、幅広い視野といった「本来の一般教養」から技能や各分野の専門的知識へと取って代わっていくこととなりました。
対する組織社会は、各自が「責任」を持つようになった社会を指します。特にドラッカーは戦後日本の企業を組織社会の好例として論じています(果たして現在の日本はここで示される組織社会かは大いに疑問ですが…)。
このような組織社会において、企業は社会的責任を持つことと、自己規律によって効率的な組織運営を可能にしました。ドラッカーはこの組織においてテニスのダブルス的なチームが最も理想的だ、としています。
つまり、現在の知識社会においての組織であれば、誰もが専門的な知識のある人間であるわけなので、全員が貢献者となること(当事者意識を持つこと)でその責任を果たせるだけでなく、組織のマネジメントは完了する、ということとなります。
ドラッカーの目指す、「教養ある者」とは
さて、それでは知識社会において本来求められるのはどのような人間なのでしょうか。
ドラッカーは「教養ある者」の必要性を説いています。
前述のように、近代以降、人々の知識はより専門化されることとなりました。その結果、情報や知識の専門性を持つ専門的知識人と、この専門的知識人を監督する管理者の二種が存在することとなったのです。
さて、教養ある者とは、本来、この双方の理解ができる人間、そして忘れ去られたリベラルアーツを理解する人間です。
教養人はすべてにおいて専門的すぎるほど知識を有している必要はありません。ただし、全てを網羅した上で理解し、行動ができなければなりません。
多くの人は、大学時代に学び得た知識を不要とされる社会を嘆きながらも、組織において必要な専門的知識を得ることのみに励んでいます。
それが一般的な専門的知識人(労働者)であるのならば、専門外の教養を持ち、すべてのことにある程度通じ、自分の持つ引き出しを「応用する」ことのできる人間が最も求められます。
私達の多くは、これまでに学んだことをどこかで忘れ去るか、学んだ知識に対する応用能力がかけてしまっています。その結果、具体的な解決策を見出す糸口がすぐ近くにあったとしても気づくことができないのです。
本来あるべき姿は、広範な知識を持ち、運用する教養人になることでしょう。
本当の教養は、どこにあるのか。
簡単な概要になってしまいましたが、皆さんはどう感じたでしょうか。
本書の論調は社会、政治、知識の3部構成であり、社会と国家の変遷から、ポスト資本主義社会を説明し、これから求められる人物像について段階を追って説明していました。
これらの分析からもドラッガーが本書を通して目指す「教養ある者」の定義が見えてきますし、何より、その根拠の提示の仕方からも彼自身が教養人であり、知の巨人であるのだと感じ入りました。
さて、ポスト資本主義社会、の想像される社会はもうすぐそばまで来ていました。
さらには、コロナという大きな世界レベルの災害によって、ドラッカーの想像の範疇を超えた時代がついにやってきたようにも感じています。このまま、ポスト資本主義はポストコロナへと移行していくのかもしれません。
現在の社会秩序を我々はどう見て、どう乗り切っていかなければならないのでしょうか。
ビスマルクの言葉を借りれば、「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」。
私達が教養を持つ人間にならなければならないのは、このような状況下だからなおさらでしょう。歴史と経験では、近いようで全く異なるのです。応用力と視野の広さは不可欠なものでしょう。
仕事に直結した内容を知っていなければならないことは当然のことであり、最低条件だということを忘れてはいけません。
そして、何より、それ以上の教養を持たなければ…圧倒的成長のためには、その引き出しもいつか求められる、と信じています。
そうあることで、世界を、国家を、社会を見る視野の広さを持つことができるのでしょう。
物事の本質を見極める力は、知識がなければ生まれないのですから。
このような状況がいつまで続くかわかりません。
漠然とした不安感が、世界にも日本にも漂っているようにも思います。
ここで、私は時代の流れに呑まれたただの新卒に成り下がりたくありません。
だからこそ、読書と、こうしてささやかながら文筆活動を続けていきたい、と思いっています。
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