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四半世紀が経過した「私」と世界。

こんにちは、hanaです。
私事ではありますが、、、
早いもので、先週で25歳になりました。

この記事を読まれている方からは、きっと「まだ25歳」「もう25歳」と、様々な捉え方をされていることでしょう。
25年経てば私だけでなく、日本も、世界も大きく変わっているはずなのですが、そんなことをどれだけの人が正しく認識できているのでしょうか。

そこで、2020年に25歳を迎えた私が、私的なことを抜きにして感じた25年という時の長さについて記していければと思います。

25年に対する感覚の誤差

25年というと、四半世紀でもあり、一つの時代の区切りとしてもわかりやすい基準だと思います。
少し大雑把にはなりますが、子が親になり、親が祖父母世代になるという一つの世代の指標にもしやすいことでしょう。

ただ、不思議なのは自分にとっては「20年前」と言われるとまだ生まれていない時代のような印象が残っていることです。
実際には2000年が20年前で、携帯電話も登場しているのにも関わらず、まだ私の中ではポケベルだとかブラウン管でスター誕生をやっていたとか、そんなイメージがあります。

挙句の果てには、JRの古いCMをリアルには見たことがないのにも関わらず、ノスタルジーすら感じるのです。

きっと今の高校生からしたら公衆電話を常用したことも”ガラケー”も一世代前のもののように感じるのかもしれません。
友達とシール帳を持ち寄り、交換しないと言われたときの衝撃はものすごいものでした。

こんな浦島太郎的な感覚は、少し上の世代になればより身近なものなのかもしれません。

遡ることで感じる、25年という時の流れ。

しかし、実はこの25年でも大きく変わっています。
そもそも、私が生まれて25年経つのと同じだけの時間で時を遡れば、よりわかりやすいのかもしれません。

つまり、50年前から25年前までの25年間で考えてみるとイメージしやすいと思います。
1970年といえばまだ世界は冷戦下であり、日本は台湾と国交がありました。
アジアで考えれば、中国とは国交がなく、ベトナムではベトナム戦争が激化していました。
国内では、高度成長期真っ只中の日本は工業大国として、世界に大きな存在感を放っている反面、公害問題とも向き合わなければいけなかった時代です。

激動の時代だったことは確かですが、日本としてはまだ明るく見えていた時代だったのかもしれません。
正直なことを言えば、1970年ですら、ポップカルチャーとしてははるか昔でないような感覚を持っています。それは、昭和をまとめる番組がまだまだ現在でも放映され、「二つ前の時代」という感覚すら無いからでしょう。
しかし、歴史を学んでいれば経済の感覚や国際環境からしても到底近い時代だとは言えません。
私達は、この時代の地球儀を見れば知らない国の名前をいくつも見かけることができるでしょう。
ましてや、1970年に「25年後にはソ連は存在していないし、50年後には中国は超大国となっている」といっても誰も信じなかったのかもしれません。

それに対し1995年といえば、ソ連もバブルもすでに崩壊した世界です。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が起き、社会不安の続いた年だったことでしょう。
そんな1995年から2020年の間に、アジアも大きく変わりました。
香港とマカオは中国に返還されましたが、一国二制度は機能せず香港では未だに激しく民主化運動が続いています。
台湾は、念願の総統直接選挙が実施されました。長く続いた国民党政権がついに倒れることとなっただけでなく、3度の政権交代が起き、フリーダムハウスの調査ではアジアで最も民主的とまで呼ばれるようになりました。
日本でも、政治は大きく動いたことでしょう。長く続いた55年体制の崩壊をはじめ、民主党政権の登場、地域政党の振興など新しい動きが次々に登場しました。

そして、トランプ政権の登場もまた50年前には想像し得なかったでしょう。
ポピュリズムの登場は世界の政治に大きな影響を与えました。
これまでテレビ越しに見ることのできた遠かったはずの政治も、SNSでハッシュタグデモが起きたり、興味を持てば触れ合うことのできるくらい近いものとなりました。

それだけの影響を及ぼした中核となったのは、情報革命だったのかもしれません。

情報の変貌から感じる25年。

少し固いテーマで25年の流れを一つさらってみましたが、情報革命をキーワードに、この25年で大きく変わったものの一つとしてテレビについて振り返るのも良いかもしれません。
テレビは物理的にも、役割としても大きく変貌を遂げています。
ブラウン管は薄型になり、液晶は有機ELとなり、ハイビジョン高画質は8Kにまで進化しました。

その反面、youtubeのような動画発信ツールや配信サービスの登場により、テレビを見ない世代が増えてしまいました。
あるいは報道の価値について大きく疑問を抱く人々は増えていることでしょう。ネットニュースの登場です。
掲示板(BBS)時代から報道の信頼性を問う人々は存在していましたが、TwitterをはじめとするSNSでは様々な立場から直接情報を発信する人が増えています。
ソースは多種多様に、真偽はともかく情報が集まってくる時代には、情報の取捨選択ができることができるようになったのです。

これはニュースだけでなく、ドラマ、バラエティー問わず同じ現象が出てきています。
それでは、テレビが設定した情報を継続視聴しなければならないような形式では客層が減っていってしまうのです。
テレビ番組を見ていれば友達と話せた時代から、youtubeで急上昇動画を見たかどうかが会話の中心へと移行しています。
カラオケやプリクラといった青春のツールにはtiktokが加わりました。これらは「自分たちで楽しむもの」から公開するものへと変わってきてもいるのかもしれません。

25年の変化は勉強法に生かされているのか

こうした情報の直接性はデジタルネイティブ世代からすれば信じられないほどの恩恵を得ていることでしょう。
書店やテレビ等から二次的にしか取得できなかった情報は、直接発信、直接アクセスできるようになりました。

これらは言語学習にも大きく変化を与えても良いはずです。
今の学生、あるいは学ぶ意志ある社会人は本来もっと主体的に取り入れていってほしいのです

少し前であれば、昔は英語の文章を読みたければ、英字の本か新聞を購入しなければならなかったものでした。
少し便利になってもコピーして何度も書き直したり、とき直ししたものでした。上質なテキストは予備校でしか入手できなかったでしょう。
リスニングの練習にはリスニングのCDを買って何度も何度も聞いてトレーニングをしたことでしょう。
参考書は書き込んで何冊も積み重なり、処分に困ったことでしょう。
電子辞書や紙辞書は必需品だったでしょう。
事実、私は高校時代毎日何冊も参考書を持ち歩き、肩を壊しかけた思い出があります。

本当に便利な世の中になったものです。
今はyoutubeであれ、言語学習サイトであれ、動画配信サービスであれ、「生の言語」を聞くことができるはずです。

きれいなノートのとり方だって、英語で調べてみればいい。


台湾のリアルな暮らしについて、中国語で挙げている台湾人youtuberもたくさんいます。(フランス人もいます!) 

そう、思っている以上に、世界は便利に、身近に進歩しているはずなのです。

英語を検索ツールに設定すれば、英語の文章はたくさん出てくるし、Amazonで書店で手に入らないような洋書も購入できる。
あるいは文豪の作品は「青空文庫」で無料で入手でき、スマホからでも読むことができます。知らない単語があればその単語をなぞれば、知らない単語をすぐ検索エンジンが調べて教えてくれるでしょう。
以前より優秀になった翻訳ツールが正しい訳を教えてくれるかもしれません。

買わなければいけない参考書は最低限になるはずだし、基本的なことを学べばすぐネットからネイティブの用いるニュースだって、論文だってすぐアクセスできる。そんな時代になったはずなのです。

果たしてそれだけのことを使いこなしている人はどれほどいるのでしょうか。
正直電車の中を見渡してもそんな効率の良さそうな勉強をしている学生にはあまり巡り会えません。

失われた20年が30年になったその先。時代に取り残された人間にならないために。

ここまで読み進めたあなたは、何を感じたでしょうか。
時代の変化とそれに取り残された状況を少しでも感じていただければ幸いです。

日本は時代について行っているようで、ガラパゴス化を極めていった良い例だと感じることも少なくありません。
日本は島国だから仕方のないことなのかもしれません。
日本に誇れるものは、冗談抜きに四季だけなのかもしれません。

そう自分たち自身が言わないためにも、何かを主体的に活かすということをしていかなければいけないのだと強く感じています。
この「活かす」ということが出来ないのが多くの原因なのではないかと、自己反省しています。
何かを調べるときも他者の評価を調べる割に、「自分がどうしたい」という意志があまりにも弱いのかもしれません。

何のために文章を書いているのか。
何のために言語を勉強するのか。
何のために受験勉強があるのか。
何のために部活動をしているのか。
この「なぜ」「なに」は正解があるわけではないですが、本質にたどり着ける人がどれだけいるのでしょうか。
その先に活かす事ができないからこそ、今の時代に追いつくことが精一杯で未来につながらないような人生になってしまうのかもしれません。
そして、これは各個人だけの問題ではなくなるのです。
個人がそれぞれその状態であれば、集団化し、地域として、あるいは国家として全体がそうなっていけば…
一億総受け身、気づけば世界に取り残された孤島にだってなりうるのかもしれません。

その時に黒船はまたやってくるのでしょうか。
誰かがまた目を覚まさせてくれるのでしょうか。
…この時点でやっぱりもう「受け身」になってしまいます。

目的を履き違えた生き方は、目的を見失うのはもう終わりにしていきたいと、そう感じています。


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