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*無料公開*「マリー・ド・メディシスの肖像」ピーテル・パウル・ルーベンス【ルーヴル美術館の名品150選】88

作品が語っているメッセージは何か?
世界屈指のコレクションを誇るルーヴル美術館。何万という作品中、絵画に注目、世界的に有名な作品群のうち「意味を読み解く」観点から面白い150の作品を厳選。
人物は?場面は?出典は?意味深なディテールが語っているものは?作品に隠されたメッセージを読み解きます。

*ルーベンス作 連作「マリー・ド・メディシスの生涯」(1622-1625年)*

*ピーテル・パウル・ルーベンス作 連作「マリー・ド・メディシスの生涯」、1622-1625年、北方絵画部門、リシュリュー翼 ©2011 Matt Biddulph (CC BY-SA2.0)

さていよいよこちらの作品:ルーベンス作「連作マリー・ド・メディシスの生涯」、1622年から1625年。

ルーベンスの最高傑作。
ルーヴル美術館の至宝。

全24枚。全て大型の絵画からなる一大作品。
一人のフランス王妃の栄光に満ちた生涯の物語が
神々や寓意を駆使し壮大に語られます。

◆ルーヴル美術館の構成◆

この作品はルーヴル美術館の至宝の一つ。
ルーヴル美術館ではご覧のように、この連作のために、特別に部屋が設けられ、作品が展示される。
この部屋は「メディシスのギャラリー」と呼ばれている。

左上:©2011 Matt Biddulph (CC BY-SA2.0)
右上:レオナルド・ダ・ヴィンチ作「モナリザ」、1503-1519年頃、0.77×0.53m、イタリア絵画部門、ドゥノン翼
下:©2010 Benh LIEU SONG (CC BY-SA 3.0)

下は、ルーヴル美術館を正面から見た写真。
ルーヴル美術館はコの字型の形をしており、こちらはコの字の開いた側から見た様子。
左手が北側にあたり「リシュリュー翼」、中央が東側で「シュリー翼」、右手がセーヌ川に面した南側で「ドゥノン翼」という呼び名になっている。

多くの方がまず間違いなく訪れるのが、右手の側、南側の「ドゥノン翼」。
「モナリザ」や「カナの婚礼」、「ナポレオンの戴冠式」、「民衆を導く自由の女神」、そして「サモトラケのニケ」があるのが、こちら側ドゥノン翼。「ミロのヴィーナス」に向かうのもこちらのドゥノン翼の側から。
ドゥノン翼には「イタリア絵画部門」が置かれており、そしてこちらに、フランス絵画の「新古典主義」そして「ロマン主義」の大型作品も展示される。

シュリー翼には、「フランス絵画部門」の本体部分があり、リシュリュー翼に、「北方絵画部門」があって、フランドル、オランダ、ドイツの作品は、こちらに展示される、という構成になっている。

ルーベンスは、フランドル絵画の巨匠。
連作「マリー・ド・メディシスの生涯」は、左手の側リシュリュー翼の目玉作品。
時間のない方は右手側のドゥノン翼だけ見て帰ることが多いのだが、今度は是非、リシュリュー翼、そしてシュリー翼にも足を運び、重要作品を見逃すことのないようおすすめしたい。

ルーベンスの連作「マリー・ド・メディシスの生涯」は、私にとっても非常に思い出と、思い入れの深い作品で、私の講義では、度々紹介をさせていただいている。
ここからこの連作中の場面を取上げる【名品88~101】。

◆王太后マリー・ド・メディシスのための作品◆

この作品の注文者は、フランスの王太后マリー・ド・メディシス(1575-1642年)。
マリー・ド・メディシスは、「ガブリエル・デストレとその姉妹」【名品80】で触れた、フランス国王アンリ4世(在位:1589-1610年)が、王妃マルゴとの「結婚の無効」が成立した後に、王妃として迎えた女性。
この作品が描かれた時には、夫のアンリ4世は亡くなっており、息子のルイ13世(在位:1610-1643年)の時代になっている。 

当時の王宮は、まさしくルーヴル宮。
王太后マリー・ド・メディシスは、セーヌ川の対岸に、自分のための離宮を建てさせる。
その離宮を飾るためのものとして、描かれたのがこの連作。

マリー・ド・メディシスは、夫アンリ4世の連作と、自分の連作の、2つの連作をルーベンスに描かせる予定であったのだが、マリー・ド・メディシスの連作だけが実現することになった。

◆マリー・ド・メディシスの離宮リュクサンブール宮◆

上:©2010 JPLC (CC BY-SA 3.0)
下中央:©2018 Arthur Weidmann (CC BY-SA 2.0)
下右:©2010 Benh LIEU SONG (CC BY-SA 3.0)

マリー・ド・メディシスの離宮は、現在も存在する。
場所はルーヴル宮のセーヌ川を挟んだ対岸。
現リュクサンブール公園の中にある「リュクサンブール宮」が、この離宮。
もともとは、今日市民の憩いの場になっている、公園の方が宮殿の庭園であったわけ。
現在は、この建物には、フランスの上院議会が入っている。
建物は非公開であるのだが、年に3日「文化遺産の日」の期間中には、中に入れるようになっている。

上の写真は宮殿を公園側から見たもの。
連作「マリー・ド・メディシスの生涯」は、向かって左手の棟(むね)の「大階段」に設置されていた。
下が「大階段」の写真。
階段を上がった2階部分がギャラリー状になっており、ここに連作が設置されていた。
右が、ルーヴル美術館での展示の様子。
比べておわかりいただけるのではないかと思う:ルーヴル美術館では、もともとの様子をイメージして、展示スペースが作られる構成になっている。
では、見ていくことにしよう 。

■ルーベンス作「マリー・ド・メディシスの肖像」(1622-1625年)

中央:「マリー・ド・メディシスの肖像」、INV1792、2.76×1.49m
左:「ジャンヌ・ドトリッシュ」、INV1791、2.47×1.16m
右:ルーベンス作「フランソワ・ド・メディシス1世」、INV1790、2.47×1.16m
(いずれもルーベンス作、1622-1625年、北方絵画部門、リシュリュー翼)

1枚目。
注文者にして主人公。
メディチ家が輩出した
二人目のフランス王妃。
胸を出すのは
女神になぞらえられるしるしです。

◆王太后を女神とフランスになぞらえる◆

さて、マリー・ド・メディシスはここでは、さきほどヘラクレスと一緒に描かれていた【名品84,87】、英雄の守護者、智恵と勇気の女神ミネルヴァ(ギリシア名アテナ)と重ねられる。
ミネルヴァ/アテナは「武装した女神」という姿で表わされ、ここで取り上げられているように、「手に勝利の女神の像を持つ」表現でよく表される。

ここでは、マリー・ド・メディシスは、「青地に金のユリ」の模様のマントをまとう。
この模様はすでに見た王の肖像画の中に、度々描かれていた【名品80】。
この模様は「フランス王家の紋章」で、連作「マリー・ド・メディシスの生涯」の中では、「フランス」という「国」を表わす人物が、この模様の衣装をまとう。

ここでは、後に出てくる「フランスの擬人像」も意識されており、注文者にして主人公、マリー・ド・メディシスは、ここでは、智恵と勇気のミネルヴァになぞらえられ、そしてフランスそのものも体現する、という表現になっている。

◆マリー・ド・メディシスの両親◆

 両側が、両親の肖像。
父が、フランソワ・ド・メディシス(1541-1587年)、イタリア名、フランチェスコ・デ・メディチ。
マリー・ド・メディシスは、イタリア、メディチ家の出身。

母は、ジャンヌ・ドトリッシュ(1547-1587年)。
「ドトリッシュ」というのは、「オーストリアの」という意味で、ハプスブルク家のしるし。
母は、オーストリア・ハプスブルク家の出身 。

◆マリー・ド・メディシスの系譜◆

ではマリー・ド・メディシスの系譜を見ていくことにしよう。
こちらはメディチ家の系図。
メディチ家は、イタリアの名家。
メディチ家は、もともと商人で、銀行業で力を持ち、共和国フィレンツェの事実上の支配者となり、続いて、フィレンツェとその周辺を領地とする、貴族「トスカナ大公」になった。
メディチ家は、フィレンツェ・ルネサンスの立役者としても有名で、「祖国の父」と呼ばれた、コジモ・デ・メディチ(1389-1464年)、そして「イル・マニフィコ」、「偉大なるロレンツォ」と呼ばれた、ロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492年)が特に有名。
この二人を含むのが、本家筋にあたる。

貴族として「トスカナ大公」になるのが、分家の系統。
初代トスカナ大公が、コジモ1世(1519-1574年)で、マリー・ド・メディシスの父は、その息子。

ちなみに、ここで網掛けをして、番号を振っているのが、ボッティチェリとフィリッピーノ・リッピの作品に描かれている人物。
本家筋を描いているのが、ボッティチェリの作品で、分家の系統を描いているのが、フィリッピーノ・リッピの作品。

ボッティチェリ作「東方三賢王の礼拝」、1476年頃、フィレンツェ、ウフィツィ美術館、1.11×1.34m

では、参考までに、ご紹介をしていこう。
右下が、ボッティチェリの作品。
どちらの作品も「東方三賢王の礼拝」という場面の中に、メディチ家の主要人物を描く。
1番コジモが、ほぼ中央、番号で示している人物。
2番ピエロが手前、赤いマントの人物。
3番ジョヴァンニが、その右白い衣装の人物。
4番ロレンツォは左。
5番ジュリアーノは右中ほど。

作品制作時、本家の当主であったのが、4番、ロレンツォ・デ・メディチ。1、2、3番の三人が、キリストに贈物を持って来た王の姿で表わされる。

フィリッピーノ・リッピ作「東方三賢王の礼拝」、1496年、フィレンツェ、ウフィツィ美術館、2.58×2.43m

分家の系統を描いているが、ボッティチェリの弟子で助手で友人であった、フィリッピーノ・リッピ。
1番ピエル・フランチェスコが、右隅黄色いマントの人物。
2番ロレンツォ・イル・ポポラーノが、赤い衣装。
3番、ジョヴァンニ・イル・ポポラーノがその左。
作品制作時、分家の当主であったのが、2番ロレンツォ・イル・ポポラーノ。
この人が、ボッティチェリの有名な「春」を贈られ、「ヴィーナス誕生」を注文したと考えられる人物。
ここでは、矢印の3人が、王、ということになっている。

ロレンツォ・イル・ポポラーノの弟の系統から、トスカナ大公が出ている。

左下:「カトリーヌ・ド・メディシス」、1580年頃、パリ、ルーヴル美術館、フランス絵画部門、シュリー翼、INV3276、30×25cm

さてマリー・ド・メディシスはメディチ家が輩出した二人目のフランス王妃。
一人目が左に肖像を示しているカトリーヌ・ド・メディシス(1519-1599年)。
この人はロレンツォ・イル・マニフィコ(偉大なるロレンツォ)の孫にあたる。
この人は、ダ・ヴィンチをフランスに招いた王様フランソワ1世(在位:1515-1547年)の息子、アンリ2世(在位:1547-1559年)の王妃となる。
アンリ2世には、20歳も年上のお気に入りの愛人があり、この人は、かなり嫉妬に悩まされたことと思われる。
この人の娘が王妃マルゴで、フランス国王アンリ4世の最初の王妃になった人。
マルゴとの「結婚の無効」が成立し、マリー・ド・メディシスが、その後アンリ4世の二番目の王妃となった。
 
さて、メディチ家はもともと商人の家柄で、貴族としては歴史が浅い。
一方、フランス王家は、長い歴史を誇り、かつ、その血筋を聖王ルイ(在位1226-1270年)に遡る、ヨーロッパでハプスブルク家とともに一・二を争う名家。
フランス王家とメディチ家は、家柄の格が全く違う。
一族からフランス王妃を出すことは、メディチ家にとっては大変な名誉であり、家柄の格を一気に押し上げる、極めて重要なことであった。

一方、迎える側からしてみれば、フランスにも下心があったわけ。
フランスは、宗教内乱で国が疲弊している。
メディチ家はもともと銀行家の家柄で、「お金を持っている」。
メディチ家がもたらす持参金が、フランスの国の立て直しのために、非常に魅力的であった、というわけ。

(【ルーヴル美術館の名品150選】88)

*****

次回予告:

「マリー・ド・メディシスの誕生」、1622-1625年、INV1770、3.94×2.95m、北方絵画部門、リシュリュー翼

矢澤佳子(やざわけいこ)。西洋美術史講師。フランス国立ルーヴル学院(Ecole du Louvre、パリ、ルーヴル宮。フランス文化庁所轄、フランスにおける美術史・美術館学の最高峰)にアジア圏から異例の合格を果たす。専門はキリスト教・神話・文学・寓意の図像学(主題・内容の読み解き。専門首席卒業)。美術作品の読み解きを行う講義「名画を読み解く」(教室・配信)を各所にて実施。NHK文化センター関東・中部・関西の各教室(青山・町田・名古屋・梅田・京都・神戸等)他。「講師と行くルーヴル美術館特別解説ツアー」他国内外の解説旅行企画および随行多数。

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きれいだけれど「何を語っているのだろう」と思うこと多々あろうと思います。作品は意味がわかると格段に面白くなるもの。作品毎の購入も可能です。

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