見出し画像

理不尽とたたかうこと

ある程度、社会の中で生きていると、理不尽な人、理不尽な出来事に遭遇することは少なくない。

例えば、接客業をしていれば、急にお客さんから怒鳴られたり、罵倒されたりする。そんなとき、周囲がフォローしてくれれば、その傷は浅い状態で済む。ただ、その期待が裏切られることもある。余裕のない上司が「もっとしっかりしてね」と追い打ちをかけてくることもある。

「そんなこともあるさ」と流せる人は強い人であり、働く覚悟のある人だと思う。

一方で、それを思い詰めてしまう人もいる。もちろん、無茶苦茶な客が悪いのだが、「同僚の〇〇さんはお客さんに怒鳴られているのを見たことがない。自分に原因があるのかも」と考えてしまう真面目な人もいるだろう。

理不尽はあって当たり前のこと。これまでわたしもそう考えていた。働くことはその理不尽さに耐えること。だから、お金がもらえるのだと。これは、会社員でもフリーランスでも同じだ。仕事とは、常にお金を出す側が強い。

理不尽に耐えることを己に課すことに、うんざりしている自分を発見した。もちろん、そこに「栄光」があれば耐えられる。しかし、いくら続けても「栄光」にたどり着かない仕事がほとんどだ。

社会は厳しいんだ。我慢しろ。そういうものだと思って、思考停止してしまえば楽になるのか。とにかく、謝ればいいと思っておけばいいのか。

前の職場との類似性のある求人を見たとき、応募しようかと思ったとたん、嫌悪感がいっぱい広がるのを感じた。また、同じ目にあうのが嫌なのか、似たような人たちと働くのが嫌なのか。原因はわからない。もちろん、楽園のような職場がないことぐらいはわかっている。

今も、昔もうんざりしている。この慢性的な疲労感は厄介だ。わたしの場合、子どもの時から疲れている。それは努力と競争を強いられてきたことと無関係ではない。大人になっても、椅子取りゲームは続いていく。そのことに参加する前から疲れてしまっている。

そして、椅子取りゲームに勝ったところで、その向こうには地獄がある。「ストレスから逃げればよい」「ストレスを回避できる」とも思っていない。

何もやってもいないのに疲労感があるのはなぜなのだろう。

頑張りたくない自分がいるのは確かだ。どうしたものか。もう少しきちんと内省をしておかないと、転職が成功しても、大怪我をするような気がする。貯金を切り崩して生活することに不安はあるのだが、考えるために休むことを自分に許可してもいいのではないか。

そんなことをここ数日、つらつら考えている。

チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!