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亡くなった友人に会いに行く(お墓参りについて)

先日、10月にも関わらず、まだ気温が30℃を越え、日差しの強い日、友人のお墓参りに行ってきた。

これで3回目だろうか。

今回は、わたしのまえに、ほかの人たちが来ていたようで、墓石の掃除は必要ではなかった。

水をかけ、墓石の土ぼこりを流し、花を生ける。

わたしが彼と知り合ったとき、彼は末期の胃がんで、余命一年であることを宣告された。若いことが災いしてか、結局、彼は治癒することなく、亡くなってしまった。一緒に過ごせた時間は、ごく短いが、わたしが渡したお守りと手紙が彼の部屋に残っていたらしく、亡くなってから親族の人から連絡が来た。

深い交流があったわけではないのだが、不思議な包容力のある人だった。亡くなってから知ったのだが、彼はある技術的な分野の開拓者で、日本全国にその知識と技術を行きわたらせた人でもあったという。彼は「先生」と呼ばれ、慕われていたそうだ。すごかったのに、自分のことは、ほとんど何も話さない人だった。

このとき、わたしは二十代で、本人が予想のできない、不本意な人生の終わりがあるのだと学んだ。

彼に悔いがあったかどうかはわからない。でも、やりたいこと、挑戦してみたいことはあったはずだ。そのチャンスが潰えてしまったのは残念だ。でも、彼の分まで生きようとは思わない。彼の人生は、彼にしか生きられないのだから。

ただ、わたしの時間も永遠ではないことをきちんと自覚したいとは思う。

むやみに老いることを恐れたり、老後の預貯金の準備にうんざりしたりする。

その一方で、どうにもならない過去に執着したり、過去の自分や他人を責めたりする。

そのような無駄な行為に時間を使ってはならないと切に思う。老後の心配をしたところで、その老後があるのかどうかもわからない。もちろん、過去を変えることなどできやしない。

頭ではわかっているのだが「今を生きる」のは本当に難しい。

時間も命も有限であることがわかっているのに、癖が治らず、無為な時間を過ごしてしまう。

急に頑張り、その反動で疲れてしまったりもする。

「今の自分」にだけ、焦点を当てることができたら、ずっと楽になれるとわかっているのに、未来を怖がり、過去を悔やむ。馬鹿馬鹿しいのにやめられない。

そのような自分をリセットするためにも、一人でお墓参りに行き、友人に語りかける。

「わたしはまだ生きている。いろいろひどい目にあって失業しちゃったよ」なんて近況報告をすると、ほんの少しではあるが、気持ちの整理ができる。

お墓は、生きている人間のためにある。その人が生きた証であり、生きている人間が何かを学ぶためにある。

最期の日が来るまで、わたしは、自分の人生を存分に楽しみたい。

そう思ってはいるものの、人生を楽しむには才能が必要で、わたしはその才能が皆無なので困っている。

毎日、きついことのほうが多いのだけれど、今からでもいいので、未来に怯え、過去に執着する思考の悪癖を直せたらと思っている。


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