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高橋ユキ『つけびの村』の読書感想文

高橋ユキの『つけびの村』を読んだ。2019年に晶文社から出版された本で、noteから生まれた書籍でもある。わたしは、週刊文春オンラインで、この本の存在を知ったので、だいぶ遅かったと思われる。

著者はこの事件を殊更におどろおどろしく書いていない。筆致はかなり抑制的である。もっと、ショッキングに、劇的に、大袈裟に、ミステリー風に書くこともできたと思う。しかしながら、被害者と加害者がいる以上、安易な装飾はしたくなかったのだと推察している。

印象に残ったのは、著者自身が出てくるところであった。

ライターとして食べられていないこと、SNSの誕生から凶悪犯罪が忘れ去られるスピードが速くなっていること、ノンフィクションのルポルタージュの構成が定型化していること、ノンフィクションの企画が通りにくくなっている、といった裏事情が淡々と語られており、そちらのほうが興味深かった。(ちょいちょい木嶋佳苗が登場するのも趣があった)

山口県周南市金峰(みたけ)の限界集落の狭い人間関係の中で起きてしまった事件だが、これは田舎に限らず、どこでも起こり得る事件だという気もした。都会だと物理的に実行が難しくて、途中で断念せざるを得ない、あるいはほかの方法が取られるのだろう。それ以前に、都会であれば、病院に行けたり、ほかの選択肢や人間関係もあるので、そこまで追いつめられることもなかったのかもしれない。

そして、集落における神様(氏神)と都会の神様には、大きな隔たりがあるのだと知ることができた。都会の人間は、条例や法律は気にするが、神様はエンタメの一つぐらいにしか考えていないと思う。ただ、自然の中で、山の中で生きるとき、人は神様の存在を意識せざるをえないのだろう。

最近、わたしが思うのは、精神のバランスというのは、いとも簡単に崩れてしまうのはないか、ということだ。この事件の加害者だけの問題ではなかろう。(もちろん、精神のバランスを崩しても、事件を起こさない人が大半だが)

だから、いろんな逃げ道(あるいはガス抜きの方法)を持っておく必要がある。よく行く店で雑談ができたり、SNSで愚痴を吐いたり、会釈をする隣人であったり、植物やペットの世話をしたり、入浴や食事を大事にしたりすることで、被害妄想から自分を守れるはずだ。あと、社会福祉へのアクセスは、政治家が努力すべき改善点だろう。

この世に順風満帆で、すべてに満ち足りた人など存在しないのだが、わたしたちは他者をそのような存在だとみなしてしまうことがある。

自分はどこまでも不運で恵まれない存在で、すべてが空回りしているという妄想に囚われることがある。

大半の人々は、不幸と幸福と、そのどちらにも入らない些細で些末な日常のなかで暮らしている。

日常を楽しめるか。日常に何を詰め込むかで満足度は大きく変わる。

まずは、自分で自分を愛することだ。自己愛の塊になるのではなく、自分の存在を慈しみ、寿ぐことができたら、絶望から自衛できるはずなのだ。永遠に訪れない他者の承認を待つより、自分でやってしまったほうが手っ取り早い。

人間である以上、他者との関りは避けられないし、それがなければ生きていけない。しかし、それがすべてではない。

わたしたちは、加害者にも被害者にもなり得る。だから、わたしたちには、ノンフィクションが必要なのだ、とわたしは思う。

高橋ユキさんのnoteはこちらです。



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