私が見た南国の星 第6集「最後の灯火」㉒
闘病生活
ここから始まる物語は、私の癌闘病生活の一部となる。12月15日、海口市の空港から広州へ飛び立った私は、上海経由で名古屋へ向かう事にした。広州からは、海南島で親子のようにお付き合いをしている長野君と崔さんも同じ便での帰国だった。二人は広州から名古屋へ向かい、到着後は夜行バスで神戸に帰省をされる予定だった。その日は、彼等と一緒だったので、寂しさや身体の不安も感じなかった。
広州の空港で待ち合わせをした私たちは、フライト時間まで話に花を咲かせていた。やがて飛行機は、予定時間通り上海へ飛び立った。この飛行機は、上海から国際線になり名古屋空港着となる便だった。広州から上海までは国内線なので中国人が多く、機内も落ち着かない雰囲気だ。なぜ、広州から名古屋まで国際線のチケットを購入しているのに、乗り継ぎの上海までは国内線になるのか理解できなかった。何度も航空会社へ問い合わせをしたのだが、訳のわからない弁解で私の苦情はもみ消されてしまった。大陸経由での帰国は、今まで大した問題はなかったが、あの日だけは不吉な予感が頭から離れなかった。上海空国から定刻どおり飛び立つはずの飛行機が、機体の凍結で大幅に時間が遅れてしまった。私たちは、機内に4時間近く閉じ込められた。
「長野君、この状況では名古屋到着は夜中になりそうだわね。あなたの夜行バスは間に合わないから困ったわね」
彼も心配そうな表情で返事をしてくれた。
「えぇ、本当にそうですよ。仕方がないのでセントレアの空港内で、朝まで待機をするしかありません」
と言った。機内は暖房がきつく、かなり乾燥していた。でも、誰一人文句を言わず黙って座席で待機をして、携帯電話で連絡を取り合っている人の姿が目に付いた。長い時間この機内で待機をさせられるなんて夢にも思わなかったので、腹立たしさが込み上げてきた。思い起こせば、上海で出国検査の時から胸騒ぎがしていた。でも、あまり考え込まないようにしていた。やっと、機体の凍結処理も終わり離陸体制に入った時だった。手提げカバンをしっかり抱え込もうとした時、カバンに付けていた干支のお守りがない。確かに上海の空港内で飲食の際には目に入っていた。益々この不安の波が高くなって来た。名古屋空港に到着するまで、あの干支のお守りが気にかかっていた私だった。
名古屋空港に到着したのは、深夜の1時半頃になっていた。私は出迎えがあって助かったのだが、長野君たちの事が気にかかっていた。セントレアの職員と何やら難しい顔をして話をしているように見えたので、私は彼に声を掛けて、手助けが必要かと聞いたが、大丈夫とのことだった。数日後に聞いた話では、大幅に遅れた航空会社の配慮で、二人は空港にあるホテルで宿泊ができたそうだ。セントレアの職員と話していたのは、彼のスーツケースが、輸送中に破損をしてしまい処理の手続きをしていたとのことだった。
癌の診断
このように、帰国初日はいろいろなハプニングがあった。でも、このハプニングは私の思っていた悪い予感の前兆だった。検査のための帰国だったので、私は、数年前からお世話になっている春日井市の米本レディースクリニックを尋ねた。院長は男性だったが、とても優しそうな医師なので、緊張もすることなく診察をしてもらった。問診の際には、異変が起きた状況を説明したが、自分自身では大きな問題があるとは思っていなかった。ところが、いつもと違う先生に気づいた私は、正直な気持ちで質問をした。
「先生、年末に検査結果が出ますよね。海南島へは年内に戻りたいのですが、延期した方が良いでしょうか」
すると先生は、私の顔も見ないでカルテに眼を通されながら優しく言われた。
「そうだね、延期をされた方が良いかもしれません。まぁ、結果次第ですが・・・」
今までは、いつも笑顔で私の顔を見ながら状況を説明される先生なのにいつもと違うと不安になった。
検査結果は、24日、クリスマスイブの夕方5時頃と言われた。一週間ほど待っていなければならないので、結果が出るまで仕事の関係者や友人たちに会う事にした。
東京は久しぶりだった。女社長の荒井さんや日本語学校の本田校長とお会いするのが、とても楽しみだった。一泊だけだったが、充実した時間が持てた。荒井さんは、とてもお忙しい方なのに夜遅くまで私のために時間を費やしてくださった。今回の帰国の本当の理由を話していたので、彼女も大変心配をしてくれていた。
楽しかった東京での一夜も明けて、私は足早に名古屋へ戻った。数年前から、帰国をする度に必ず立ち寄る喫茶店が気になっていた。その喫茶店は、私が宿泊しているホテルの目の前にある地下街にある。店内は狭いが、経営者のママは高齢者にもかかわらず若々しい女性だ。私は帰国の度に、必ず夕食をご馳走になっていた。まるで母親のような存在だったので、ついつい甘えていたのだった。私は、自分の体の事を正直に話していたので、ママも結果が出るまでは心配してくれて、
「きっと大丈夫ですよ。検査の結果を気にしないで、たくさん食べてね」
笑顔で差し出されたお菓子を見て感無量になった。ママには三人の子供がいて、末っ子の娘はアメリカで幸せな結婚生活を送っていると言っていた。国際結婚だが、17歳の時から渡米をしている娘なので生活には全く問題がないという。ママも寛大なので反対もせず、遠くから娘の幸せを願っているようだった。常連客が多く、ママの人柄なのか、店内は、いつも満開の花が咲いていた。私は、そんなママと母が重なっていたので、この喫茶店は自分の家のように思えてならなかった。まさかこんな理由での帰国になると思っていなかったので、クリスマスを楽しむ心境にはなれなかった。
やっと検査結果が出る日がやってきた。2010年12月24日、クリスマスイブの寒い夜だった。外は粉雪が舞い散って、身体が凍りそうなほど冷たい空気が漂っていた。そんな日に、孤独に襲われ身動きもできないような、私の辛い人生が始まったの。この物語は何年続くのだろう。たぶん私の人生の幕が閉じるまで自分との戦いになると覚悟をしなければならない。そして、私は一生この事実を消す事はできないのだから・・・