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「自己肯定感」から解放された(い)話

ありのままのわたしを好きになる。
歳を重ねることは素晴らしい。
美しさは人それぞれ。
あなたはあなたのままでいい。

昨今、世間に溢れるこの手のコトバは、まさにその通りだと思うし、言われれば理解できる。そして自分自身もこんなふうに生きたいし、生きようとしている。なんなら周りの人にもこのコトバを使って勇気づけたり、慰めたりしてきたかもしれない。

だけど、そろそろこれ系のワードって効き目なくなってきてない?(私だけ?)

この言葉たちや考え方に嘘はないし、心底共感しているし、良好なメンタルヘルスを維持して生きていくには自己肯定感を高めに設定することや、周囲の人や環境に惑わされないことが大切なのもわかってる。

だけど、たるんできた自分のフェイスラインや、いつからそこにいたの?と、忍者のように私のカラダに張り付いていたセルライトたちを前に、少しずつ自分の価値が下がっていく気にさせられる。現実はそう甘くないのだ。
仏教でもよく言われる「生・老・病・死」の四苦。誰しもが老・病・死を背負って生きているという言葉。30代になってやっとその意味がわかった気がする。

シワが増えても、贅肉がついてしまってもいいじゃないか。
そういう価値観もあるけれど(それも素敵な考え方で好き)、それが自分にとって居心地の良い状態ではなかったら?何でもかんでも受け入れて生きていけ!というのも酷な話。だから多様性を重んじる現代においてアンチエイジングしたい人も、そうでない人も自分にとって居心地の良い状態を目指すことに制限はかけられない。

SNSの普及によって十人十色の「誰かの幸せ」が共有され、自分の世界にもそれが飛び込んでくる。心に余裕がない時ほど、なんだか見ていられない気持ちがして、携帯を伏せてしまう。

他人を羨むのはナンセンス。
今の自分の生活に満足できる「足るを知る」メンタルこそがリア充であるという考え方もわかるけど、実際のところは理想と現実のギャップから目を背け、満足したフリをしているだけだよね?なんて卑屈になることもある。
誰かと自分を比べるなんて、不毛の極みとわかっているのに、無意識のうちに、もはや自動的に、やる気スイッチならぬ「劣等感スイッチ」が押され、誰かと自分を比べていることに気づく。

とはいえ日々のタスクに追われて悩み続けることも難しいし、気持ちの切り替えを割と上手にできるようになっていたりして、整体に行ってみたり、美容室に行ってみたり、ストレッチやランニングを頑張ってみたりして、「自己肯定感高めモード」に戻そうとする私がいる。

それでも、また少し経てばSNSやらメディアで自分よりキラキラしている人が飛び込んできて、カウンターパンチ。
再び「劣等感スイッチ」がカチッと音を立てて沈んでいく。

これの繰り返しじゃ、なんだか前に進んでいない気がする。
誰かと自分を比べること自体やめなよって話なのはわかっているんだけど。自動的に押される「劣等感スイッチ」を元に戻すだけで精一杯。

誰かと比べる人は、自己肯定感が低い
自己肯定感が低いのは自分の責任

みたいに言われるけれど、自己肯定感が高そうに見えるあの子も、その子も、みんな実は、そんな繰り返しを生きているとしたら?

私たちは生きていく過程で、大小に関わらずさまざまな挫折、劣等感、理想と現実のギャップに苦しみ、少しずつ自己肯定感は削がれていく。

だって、世界は残酷だ。
学校で学べば、世の中には自分より優秀な人がいることを知る。受験を通して、頭の良さを数値化され、ご親切に全国順位までつけられる。挙げ句の果てに就職では自分を年収という形で数値化され、結婚・出産を経験するか否かで、今度は人間性まで勝手に評価される。(もちろん価値基準はそれだけじゃないけれど一般的にはそうだよねって話)
そんな世界で、自己肯定感を高めに生き続けるのは至難の業。

それでも人は"生きるため"に努力して、今自分がいる世界で小さな成果から大きな成功、経験値を得ることなど、さまざまな方法で自分(自己肯定)を取り戻していく。

だから、本当のところ、そんな風にして、自動で押された劣等感スイッチを元に戻す作業こそが「自己肯定感を高める」ということで、自己肯定感が高い人というのは、物理的に自己肯定数値が高いのではなく「高める作業ができる人」のことを指すんじゃなかろうか?

つまり、ありのままの自分を愛せとか、自己肯定感を高めに持て系ワードたちは結局のところ「きれいごと」なのだ。

「自己肯定感」は高い・低いを基準に考えることじゃなく”高めることができる”ただのマインドセットの話。

自己肯定感の低さ、で悩んでいる女性を本当にたくさん見てきた。
どんな人もみんな「自己肯定感の高い人が素敵だ」と、口を揃えて言っていた。そして、私もそう思っていた。だから、自己肯定感を高められるようなランジェリーが作りたいと思って起業したし、会社としてもそんな人たちを応援したいと思ってた。(今も思ってる)

でも、それこそがナンセンスなやり方だったのかもしれない。自己肯定感が高いあの人は、自己肯定感を高める作業が上手なだけで元は自己肯定感が高くないのかもしれない。むしろ、高くないからこそ高めようと上手に努力する方法を得た人。もっというと、自己肯定感が飛び抜けて高そうな人ほど裏返しなんだと考えてみるのも1つかもしれない。自己肯定できない自分からの脱却をすべく必死に努力している人であると。

自己肯定感を高めたいからこそ、その言葉から解放される必要がある。今いる世界で自分を取り戻す作業をすればいいだけ。自分にとって居心地の良い状態に近づく努力をすればいいだけ。つまりベストな状態じゃなく、ベターでもいいのだ。
結果ではなくて、その過程こそが自己肯定の作業だから。

今の自分より少しだけ魅力的になりたいとか、今の自分より少し健康になりたいとか、今の自分より少し豊かな生活をしたいとか。そこから始めてゆっくり進めばいい。頂点を目指す必要はないし、ゴールも決めなくていい。
(むしろ高みを目指せば自己肯定感は下がっていくはずだから)

そんな風に世界を捉えてみると、自分もできるような気になってくる。少なくとも私は少し気が楽になった。

自分の現状とこれからの人生においてきっと納得いかないこともあるだろうし、誰かと自分を比べて凹むこともあるはず。老いの泉も、あと少しで膝くらいまで浸ることになる。きっとその間、私の「劣等感スイッチ」はカチカチと音を立てて自動的に何度も沈んでいくんだろうけれど。
それでいいのだ。

そうやって私たちは生きていく。十人十色の方法で、社会に削がれた自己を取り戻していく。
3歩進んで2歩下がる。そうやって人生は進んでいく。

そんなことを考えながら、今日もせっせと半身浴で汗をかく。お風呂から上がればスキンケアを一通りして、眠りにつく。明日の朝、お肌ツルツル!ハリのある素敵なフェイスライン!で目覚めることはないのだけれど、別に良いのだ。(笑)

この過程こそが私の「自己肯定感を高める」作業なのだから。

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