【雑記】本には、読むタイミングがある。
読書が好きになったのは、大学1年生のとき。
通学に電車で往復4時間もかかり、暇すぎて何かやることがないかと探した結果、本を持ち歩くようになった。
私は本を読むスピードが比較的早く、300ページほどの小説であれば、往復4時間のうちに読み終えられてしまう。
そんなわけで、当時はほぼ1日1冊くらいのペースで本を読んでいた。次々と面白い本に出会い、あれよあれよと読書の世界にハマっていった。
それでも時に、「自分には合わないかも?」と思う本と出会うことがあった。
そういう本に出会ったときは、「自分の嗜好とは少し違うのだな」と見切りをつけて、すぐに別の本に移るようにしていた。
良い意味でも悪い意味でも、私は諦めが早かった。
例えば、小野不由美さんの「十二国記シリーズ」の第一作目、『月の影 影の海』。
大学1年生のときに上巻を読んだのだが、当時は本格ファンタジーの独特な世界観にまだ慣れておらず、陽子が十二国記の世界に引き摺り込まれた序盤の辺りで、挫折してしまった。
以来数年間、私の家には『月の影 影の海』の上巻だけが、読まれずに取り残されている状態だった。
まさか『月の影 影の海』も、そこから長い眠りにつくことになるとは、想像していなかったに違いない。
——そして2021年、ついにその時が訪れた。
きっかけは忘れてしまったが、本棚の奥底で眠る『月の影 影の海』を再び手に取り、読み始めた。
……あれ、読めるぞ?
数年前は難しく感じられた文体や設定が、不思議とするする頭に入ってくる。むしろ、面白い。
これまで読んだことのないタイプの硬派なファンタジーに、胸が高鳴った。
結局、そのままの勢いでシリーズ全作を読破するに至るわけだが、このときこう思った。
あ、今だったんだ。
きっと、「本には、読むタイミングがある」のだと。
仮にその時「自分には合わない」と感じた作品でも、時間が経つと読めるようになる。少なくとも、読めるようになる可能性は残されている。
理由としては、読まずに眠らせている間に、様々な本を読んで読書の経験値を積んだことがあるだろう。読書に限らず、人生における諸々の経験を通じて、脳の許容範囲が広がるのかもしれない。
いずれにしても、例え自分に合わないと一度は脇に退けた作品でも、再読の可能性を諦めてしまうのは勿体無いと思った。
「今がその時」じゃないだけで、いつかあなたに再び手に取られる日を、本たちは静かに待っている。
現代イタリア文学の大家に、ウンベルト・エーコという方がいる。彼が1980年に発表した歴史小説『薔薇の名前』は、文学史上の名作と呼ばれている。
大学でイタリア文学について学んでいた時、本書が講義で紹介されていて、面白そうなあらすじに興味を惹かれた。
同じ学科で、本作を読了した友人から感想を聞き、これはぜひ読もうと決心した。
以来私は、この『薔薇の名前』に、3度も挫折している。
以前の私は、「自分には『薔薇の名前』を楽しむための文学的素養がないのだ」と落ち込んでいたが、きっと、そういうことではないのだ。
ただ単純に、今はまだ、「『薔薇の名前』を読むタイミングではない」だけなのだろう。
いつか、この作品を受け入れる準備が整うまで、焦らず辛抱強く待ち続けたいと思う。色々な本を読みながら。
本には、読むタイミングがある。
読めない本があっても、焦らず”その時”が来るのを待てば良いのだ。果報は寝て待て。読書も寝て待て。
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