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今日も、読書。 |それでも、あなたに読んでほしくて
西加奈子さん初のノンフィクション『くもをさがす』は、カナダ滞在中に乳がんを宣告された著者が、現地で治療を終えるまでに書いた文章をまとめた本だ。
執筆当時は、新型コロナウイルスが最も猛威を振るっていた時期。そんな時期に、日本とは制度も常識も異なるカナダで、様々な障壁にぶつかり、振り回されながら闘病する著者の日々が、真っ直ぐな言葉で語られている。
アメトーーク!の第6回読書芸人で、ヒコロヒーさんが紹介していた本書。
『短歌ください』や『宇宙人と出会う前に読む本』など、ヒコロヒーさんの紹介本には軒並み興味を惹かれたのだが、最も読みたいと思ったのが、この『くもをさがす』だった。
西加奈子|くもをさがす
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カナダでがんになった。
あなたに、これを読んでほしいと思った。
これは、たったひとりの「あなた」への物語——。
祈りと決意に満ちた、西加奈子初のノンフィクション。
『くもをさがす』は、2021年コロナ禍の最中、滞在先のカナダで浸潤性乳管がんを宣告された著者が、乳がん発覚から治療を終えるまでの約8ヶ月間を克明に描いたノンフィクション作品。
カナダでの闘病中に抱いた病、治療への恐怖と絶望、家族や友人たちへの溢れる思いと、時折訪れる幸福と歓喜の瞬間——。
切なく、時に可笑しい、「あなた」に向けて綴られた、誰もが心を揺さぶられる傑作です。
それでも、あなたに読んでほしくて
最終章「息をしている」で、西さんは次のように書いている。
医療関係のことだったし、私一人だけのことではないので、配慮の上で「書けない」こともあったし、意図して「書かない」こともあった。書くことを、身体がどうしても拒むほどの醜い瞬間があったし、書くことを、やはり身体がどうしても許してくれない美しい瞬間もあった。
西さんは、文章を書くことに対して、とてもフェアな方だと思った。
生活の全てを文章に書き起こすことは不可能だし、書かれていること全てが全くの真実であるとは限らない。文章を書くことにフェアだからこそ、西さんが紡ぐ文章は、ストレートに読者に届くのだ。
私は、ケチなのかもしれない。この美しい瞬間のことは、きっと書くべきだ、皆に知ってもらうべきだ、そう思う心のどこかで、強く、「教えたくない」と思っていた。本当に、本当に美しい瞬間は、私だけのものにしたい。誰にも教えたくない。こんなにこの文章を読んでほしいと願った「あなた」にもだ。
ネガティブな理由で書けないことだけでなく、自分だけのものとして心に留めておきたいという、ポジティブな理由で書かないこともある。
そこには、作家としての西加奈子さんではなく、一個人としてご自身の人生を慈しむ西加奈子さんがいた。
カナダの医療従事者の適当なワークスタイルに翻弄され、関西弁でツッコんだりボヤいたりしながら、家族や友人との温かい交流に心を救われ、死と隣り合わせの日々でそれでも「美しい瞬間」との出会いを大切にする、私たちの隣人としての、西加奈子さん。
乳房を失った私の体が、今の私の全てであるように、欠けたもののある私の文章は、でも未完成ではない。欠けたもののある全てとして、私の意志のもと、あなたに読まれるのを待っている。そこにいるあなた、今、間違いなく息をしている、生きているあなたに。
ノンフィクション作家は、実際に体験した美しいことや醜いこと、読者の関心を惹くであろう”価値のあること”の全てを書かなければならないなんて、一体誰が決めたのだろう?
ここまで読み手に対してフェアである西さんが、それでも「あなた」に読んでほしいと願って世に出たのが、『くもをさがす』という本なのだ。
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飾らない言葉の説得力
初め西さんは、闘病中に小説を執筆する傍ら書いていたこの文章を、世の中に発表するつもりはなかったという。
起こったことや考えたことが日記のように綴られている文章は、確かに、ごく個人的であるように思える。
本書の中で西さんは、がんの治療中、書くことや読むことによって救われていた部分があったと述べている。
『くもをさがす』は、がんという脅威に対峙した著者が、日々を生きるためのエンジンとして文章を書く、その副産物として生まれた作品なのだ。
そのため、がんになったらこうした方が良いとか、病気だからといって落ち込まない方が良いとか、そういう指南書的な文言は、全くと言っていいほど書かれていない。
西さんが感じたこと、経験した出来事、実際の日記の引用、海外文学や歌詞の引用などが、そのまま書き並べられている。
それなのに、そこに書かれている言葉には、教訓じみた指南書以上の、生の説得力が宿っている。
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自分と他者の「恐れ」と向き合うこと
本書を読んでいて最も印象に残ったのが、西さんの「恐怖」の捉え方だった。
見つめた先にあったものは、大抵、私の内にある恐れだった。それは本当に頻繁に、頻繁に現れた。例えば何かに腹が立った日、その感情をずっと見つめ、解体し続けると、最後に現れるのは恐れなのだった。怒りや苛立ちなど、一見、恐れから遠いような感情に見えたとしても、それは必ずと言っていいほど、恐れから端を発していた。
闘病中に感じた怒りや苛立ちなどの感情は、元を辿っていくと、全て「恐怖」に行き着く。
人は、何かに対して本能的に恐れを感じるために、誰かに怒りをぶつけたり、攻撃を加えたりしてしまうのかもしれない。
そう考えると、私たちが取るべき行動は、怒りを諌めることではなく、恐怖心を取り除くことなのではないか。
長らく私の体に寄生し、私の感情の発端となってきた恐れは、私自身が作ったものだった。私は恐れの母であり、父であり、友だった。私は恐れを抱きしめた。私が作り、長らく私を苦しめてきたこの恐れを、私は今こそ自分の、このたった一人の自分のものとして、抱きしめなければならなかった。
そして、治療を終えたのち、西さんは「恐怖」について次のように書いている。
がんが治り、これ以上ない幸せな日常を取り戻した私の恐怖は、真正ではなく、どこか偽物めいているように思われた。だから、しばらく誰にも言えなかった。そして悪いことに、恐怖を感じるそのことに、罪悪感を覚えなければならなかった。
一度病気を経験したからといって、恐れを抱くことに対して、罪悪感を覚える必要は本来ない。過去の経歴に、現在の恐れの真偽が左右されるのは間違っている。
だからこそ、西さんのこの言葉は、誰もが胸の内にしまっておいた方が良いと思った。
病気を経験した人に寄り添うとき、相手の気持ちを慮るとき、西さんのこの正直な言葉が、きっと助けになってくれる。
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