見出し画像

書籍紹介『教室マルトリートメント』

『教室マルトリートメント(川上 康則)』という本の紹介と感想です。

教室マルトリートメントとは?

「マルトリートメント」という概念は、海外ではチャイルド・マルトリートメント( child maltreatment )という表現で広く知られています。mal(マル=悪い)+treatment(トリートメント=扱い)で、マルトリートメント。「不適切な養育」「避けたい関わり方」「行われるべきでない指導」などの意味で使われます。

通常、マルトリートメントという考え方は、子育てなどの家族単位で適用されます。が、著者の川上先生は学校現場での経験から、学校や教室で繰り広げられる指導の中にこそ根深い問題があると考え、体罰やハラスメントのような違法行為として認識されたものではないけれど、日常的によく見かけがちで、子どもたちの心を知らず知らずのうちに傷つけているような「適切ではない指導」を表す言葉として「教室マルトリートメント」という言葉をつくられました。

・強い叱責、懲罰、締め付けなどの指導がされている
・教室ができていない子を報告し合うような監視社会化している
・多くの子どもたちが黙って高圧的な教師に従っている
・教師の一方的な語りが多く、子どもたちが発言できない空気感が教室を支配している
・先生の顔色を見ながら子どもが動いている(考えて動けない)

第1章 はりつめる教室 より

(画像はTwitter@Toyokan_Shuppanより)

これらも教室マルトリートメントに含まれます。

厳しい指導について(僕自身の話)

この本を読んで浮かんできたのは、「そうなんだよ。よくぞ言ってくれてありがとう」という感謝の想い、それと同時に過去の自分の苦い思い出です(過去の自分については後でいくつか話します)。

僕は障がいのある子たちが通う支援学校で働いています。いつからか特別支援教育についての知識や自分の考えを仕事上でも、こうやってSNS上でも発信するようになりました。

その中で、叱ることの意味や安心できる環境の大切さ、子どもたち本人のやる気や必要性を感じているかどうか、子どもたちがわかるよう具体的に伝える方法などについても発信しています。その内容と重なる部分の多い本でした。

このような威圧的・支配的な教師君臨型の教室では、子どもたちは「一見静か」で「落ち着いている」ように見えます。しかし、高圧的な指導を通して、子どもたちをいわゆる恐怖で押さえつけるようにして静かにさせているため、子どもたちも大人しくならざるを得ないのではないでしょうか。その結果、統率力・指導力がある教師であるがごとく周囲からは見られていたり、教師自身も誤解していたりする傾向につながります。

本文より

学校という現場では、このように子どもたちを統制できることが教員の素質の1つであると考えられ、統制できるのが力のある教員だと考えられるような側面があります。

まず思い浮かんでくるのは自分が初任者のときの研究授業です。

自立活動で、SST(ソーシャルスキルトレーニング)の一環で、感情の温度計を使って様々な場面での自分の怒りの温度を考える(それと同時に、同じ場面でも自分と他人が感じる怒りの温度が違うということに気づく)ことをねらいとした授業を行いました。授業は盛り上がり、子どもたちは次々と「50度!」や「80度!」、はたまた想定以上の「200度!」「1000度!」なんて答えていました(確かに温度と具体的な怒りの感情の関連付けができていませんでしたが…)。反省会で教頭先生から言われたのは「生徒が自由に発言しすぎているからもっとメガネ先生が指導しないといけない」という内容でした(指導教官の先輩は「子どもたちが自由に発言できる雰囲気がメガネ先生の良さだと言ってくださいましたが笑)。

その教頭先生は工業高校から転勤してきた方で、厳しい指導で教員が生徒を導くというスタンスの方でした。前任校ではそれがスタンダードだったのかもしれません。管理職が教職員に接するときも、教員が生徒に接するときも、「秩序」を守るために一定の「圧」が必要だと考えられていたのだと思います。

今はそうではなく子どもたちが発言や体験、考え中から気づきを得て、その気づきを普段の生活の中に取り入れたり、次の気づきに繋がっていくことが学びなのだと思っています。

そして自分が高等部で働いていたときです。「卒業後の進路のため」という名目で厳しい指導がなされる場面がありました。卒業後の進路先は厳しい社会だからと、生徒に力をつけさせるため、ある意味では追い込むような厳しい指導がありました。転勤してきた当初は、そういうものなのかなと思っていました。でも自分自身が3年間担任した子との関わりを振り返り、やり方を変えるようになりました。

10月には大学へ進学を決めたある子。当然といえば当然なのですが、勉強に身が入りません。授業中に寝るし、課題も出さなくなりました。
彼の学力やコミュニケーション力では入学しても大学での勉強やその先の希望する進路で大きな壁にぶつかると感じていた僕は、その子の将来のため「このままでは駄目だ。なんとかしないと」
「もっと残りの限られた時間でできる限りのことを詰め込まないといけない」と考えました。
もっと勉強するよう厳しく指導しました。「なんで頑張らないんだ。今のままじゃ駄目だ!大学へ行っても通用しないぞ!」毎日良かれと思ってそんな説教をしていました。でもその子が劇的に変わることはありませんでした。

その子が卒業してから気づきました。
「その子のため」と考えていたのは僕のエゴでしかなかったのだと。叱ることは正解ではなかった。例えばその子の興味関心を活かしたり、大学での学びと繋がるような楽しい学びをできたんじゃなかったのか。すぐに変わることを求めるのじゃなく、彼の将来のために必要な種を蒔くこともできたんじゃなかったのか。

大学を訪問し、生き生きと学ぶその子の姿を見て、僕は自分のやってきたことを後悔しました。それが今の自分の原点です。

この先でその子たちがどうなるかなんてわかりません。でも僕たちが厳しく叱るだけでは、結局なにも変わりません。子ども本人が気づき、考え、納得しなければ、本当の意味でその子は変わりません。具体的なやり方を示さないとできるようにはなりません。だから、僕たちがその子を理解し、関係を深め、その子に響く形で、その子が納得するような形で伝えていくしかないのだと今は思います。

どうしてそんな風に考えるようになったのでしょうか。僕にも本で紹介されている「熱心な無理解者」だったなと自覚する時期があります。

でも先輩からの言葉で、子どもたちの生き生きと変化していく姿をみて、仕事で自分が壁にぶつかるなかで、本で先人の言葉や経験を学ぶ中で、少しずつ考え方を変えていったのだと思います。

大体「厳しい環境で慣れないと!」という人の大半は、自分が上司から厳しく指摘されたときにすんなり納得しない人です(僕の経験上の話ですが)。厳しく言われたときに、自分が「そんなのおかしい!」と怒るのなら。そして子どもたち一人ひとりを人格をもった個人ととらえるなら。怒るのではなく、相手が納得できるようにどう関わったり伝えたりすればいいのかを考える方がいいはずです。

厳しい指導をすれば、将来の子どもたちのためになるのだろうか

本に掲載されていた「罰や脅し」の副作用を引用します。

①行動することそのものを止めるようになる
叱られないようにするために叱られるようなことはしなくなる。それだけでなく、よいこともできなくなり、積極性が減る。
②一時的には効果があるかもしれないが、持続しない
「脅されないと行動できない」という人になる。
③罰的なかかわりは、エスカレートしがちになる
ペナルティーは次第に増す傾向があり、心理的虐待につながる危険性もはらんでいる。
④ネガティブな情緒反応を引き起こす
極度に人を恐れる、うらむ、自尊感情が傷つく など
⑤力関係次第で、他人に同じことをしてしまう
状況がかわって、その子が力関係の強い側に回ったとき、弱い相手に対して同じような罰・脅しを多用するかかわりを行う。
⑥結局のところ、何も教えたことになっていない

第2章 教師が子どもを傷つける より

冒頭に紹介した本『〈叱る依存〉がとまらない(村中 直人)』にもありましたが、「罰・脅し・制裁」の意図を含んだ指導は結局のところ、何も教えたことになっていないのです。その場だけ威圧されて動いているのでしかなく、その後に大きな問題が起こります。子どもたちのトラウマやフラッシュバックの原因にもなります。指導者の満足感や子どもの耐性のためエスカレートしていく可能性があります。

それなのになぜ、厳しい指導やいきすぎた指導がなくならないのでしょうか。

人は自分の経験してきたことが基準になってしまう一面があります。僕の世代は多かれ少なかれ理不尽な指導や体罰を受けてきました。自分は幸運にもそれを乗り越えることができたのですが、思い出というのは過ぎ去ってしまえば美化されるものです。「厳しい指導のお陰で成長できた」と考えてしまうのです。また多くの大人が厳しい指導を受けてきたのだとすると、それ以外の関わり方を知らなかったり、違う指導に納得できず受け入れられないということも考えられます。

でも厳しい、理不尽な指導だけのお陰で成長できたのでしょうか?そして、その裏には厳しい指導についていけなかった子たちがいるはずなのですが…。

印象に残った部分

本の中から印象に残った部分をいくつか紹介します。

「どうしても譲れないラインを越えた行動に対しては、厳しく叱る」という学級経営方針を立てていると話す教師の場合、たしかに、叱る基準を明確にすることは、指導の一貫性においても、子どもたちにも伝わりやすくするという点においても、とても重要なことだと言えます。しかし、そのラインが大人の都合だけで設定されていたり、子どもの実態や能力を超えたところに置かれていたりすると、よかれと思ってつくられた基準であっても、今度は一転して、教師の首を絞めてしまうような結果に陥ります。叱ることが日常化してしまうことも多々あります。
 加えて、学級全体に不平等感を与えないようにするという教師の気持ちが子どもたちにも伝わり、子ども同士が相互に監視し合うような、教室内にピリピリとした雰囲気が醸し出されていくようになります。そして、
「先生、○○くんがまたこんなことをしています」
「先生、○○さんがまだできていません」
といったネガティブな側面の報告が増えていきます。

第1章 はりつめる教室 より

僕自身もそんなネガティブ報告をする子たちに出会ってきました。それ以外にも相手をからかったり、バカにしたりするような関わりをする子たちもたくさんいました。

きっとその子たち自身が、自分ができていないことに対してネガティブ報告をされてきたのだと思います。そんな彼らの背景を想像しながら、著者の川上先生と同じように、「友だちを心配してくれてありがとう。でもその伝え方だと、言われたのが子が嫌な気持ちになっちゃうから「○○した方がいいよ」そんな風に伝えるようにしています。彼らは伝え方や表現の仕方を知らないだけなのです。

 みなさんの放課後の職員室の会話はどのような内容でしょうか。
「あの子は指導が入らない」「あの子は指示を聞こうとしない」など、子どものできていない部分を笑うような会話が飛び交うようであれば、その職員室は、もはや末期的な症状だと言わざるを得ません。
 はじめのうちは、ちょっとしたからかいや愚痴のつもりだったのかもしれません。しかし、小さなことの積み重ねで、子どもや保護者を下に見る組織風土・学校文化が簡単に根付いてしまいます。

第3章 圧は連鎖する より

これは僕もいろんな職場で経験したことがあります。子どもや家庭だけに原因を求めても解決することはありません。その子の行動の背景を考えて「それは○○だからしれませんね」や、もしかしたら「○○してみたらいいかも」なんてアドバイスしたりしながら、間を取り持ちたいなと思います。

そもそも、子どもは促成栽培のようには育ちません(金、2016)。そうであるにもかかわらず、子どもたちの「できていない部分」を取り上げて、マイナスな部分を直す・正す・変えるという発想に立ってしまうのは、私たち教師が常に「上」の立場であり、「子どもたちをコントロールできる存在である」と考えてしまっているからではないでしょうか。
 そうした意識が強く感じられるのが「〜させる」という言葉です。職員室内の会話の中に「子どもに〜させる」や「それは子どもにやらせればいい」といった言葉がためらいもなく飛び交っていることはありませんか。
 このような「相手をコントロールできる」という指導観のもとに立つ研究は、全て残念な結果に終わります。「相手(子ども)に何かをさせる」ことを目指すのではなく、私たち教師が「子ども理解を深めるために何かをする」あるいは「既存の指導観を覆すために何かをする」といったことを志向するものでなければ上手くいきません。

昔、自分の関わる3年間(あるいは1年間)で子どもを育て上げようという熱意からくる厳しい指導をしていた先輩のことを「促成栽培マン」とブログに書いたことを思い出しました笑。

その先輩の言っていた「教員という仕事は種を蒔く仕事」というフレーズは気に入っていますが…種を蒔いたから芽が出るとは限らないですし、でも根気よく種を蒔き続けられる人でありたいなと思います。

 子どもは、自分のもがきや苦しみを上手く表現できないものです。
 例えば、学級の中に、ちょっとでも気に入らないことがあると、相手を「死ね!」と罵る子どもがいます。また、「ムカつく」「ウザい」など、周囲を不快な思いにさせる暴言や汚言が口癖になっている子どももいます。
 注意や叱責では彼らの行動はなかなか変わりません。なぜなら、その子たちは、自分の内面世界を整理したり、適切に言語化したりするすべを知らないからです。
 知らないことやまだ身に付いていないことを「未学習」と呼びます。彼らの姿を見て、「気持ちの適切な言語化が未学習な状態」だと理解できれば、適切なふるまい方のコツを「教え、導く」という発想に立つことができます。そのような視点に立つと、これまで叱って直そうとされてきたことの多くは、実は「教え、導くべき内容」であったということに気付けるはずです。

第4章 教室マルトリートメントを防ぐ より

「よくこちらが大変だと思っているその子こそが、大変さをを抱えている」というような言葉を聞きます。特定の子に配慮したことに対して「ズルい」という子は、心の中に何かを抱えているのかもしれません。厳しく叱責されれば言うことを聞くのかもしれませんが、抱えた何かの問題は解決されないでしょう。

自分自身がどうなっているのが、どう感じているのか、どんなときにイライラしたり、ニコニコしたりするのかを知らない子はたくさんいます。自分自身がわからなければ、周りのこともわかりませんし、具体的にどんな言動をすればいいのかもわかりません。その子に本当に変わって欲しいと思うのなら、モデルを示したり、実際に試してもらってその子に効果を実感してもらうような関わりの方が効果あるんじゃないかなと思います。

個人だけの責任にはしない

こんなふうに自分の思いを書いていますが、自分もマルトリートメントにあたるような言動を絶対していない、この先も絶対しないとは言い切れないよなぁと思います。

先日、保育園での虐待ニュースが流れたときにたくさん見かけた「自分は虐待しないと言い切るのではなく、虐待をしてしまうかもしれないと思っている人の方が信頼できる」という言葉に近いものを感じます。

確かに個人の考え方や職場、そして教育という場全体での意識を変えていかないといけないのだと思います。でもみんなで話をして「これは良かったのか」を振り返ったり、子どもたちの明るい未来について話すような関わりがあれば、いろんなことが変わっていくかもしれません。

それに余裕を持って接するためには、ゆとりが必要です。僕自身も職場では感情的にならないよう心がけていますが、仕事量や対人関係などのストレスがかかるとイライラしてしまいます。それに家庭では、わが子に対する思いからや日々の生活の疲れから感情的に叱ってしまい、反省することが多々あります。

本の中で触れられているように、教員にはカバーしなければいけない広範囲にわたる仕事量と理想の教師モデルのような圧があります。

理想のモデル…と思い返していて、自分に思い当たることがありました。僕が校内外で研修や発表する機会をいただいたときには、大抵、「最初は○○に取り組んだけど上手くいかなくて、で、いろいろ試してみた結果、●●をやったら上手くいきました」みたいなストーリーになります(多分、僕自身が思い立ったらまずやってみるタイプの人間だからなのでしょう)。あまり自分に自信がないのもあるので、失敗談も赤裸々に語りますし、無理なものは無理と言います。ただそんな僕の等身大の話を聞いて、「失敗したことをちゃんと失敗したと言ってくれるところがいい」と褒めてくださる方が何人もいました。もしかしたらみんな理想の教師像や成功のモデルの押しつけに疲れているのかもしれませんね。

まとめ

noteで読書感想を募集する投稿コンテスト「 #読書の秋2022 」という企画にこの教室マルトリートメントで応募しよう!と思い立ち、いつもとは違う感想文っぽいテイストで記事を書いてきましたが…〆切の11月末には間に合わず気づけば年の瀬になりました…がなんとか書き上げてみました。

繰り返しになりますが、僕は他人様に偉そうに何かを言える人間ではありません。ただ、これまでの経験や歩んできた道のりの中で、自分の指導のあり方を見直す機会がありました。そして今の僕にはとてもしっくりくる内容の本でした。変わってきた自分でよかったのだと認めてもらえた気持ちになりました。

教員として、親として、人としてのあり方について考えさせられる一冊だと思います。気になった方はぜひ手に取ってみてみてください。


表紙の画像は楽天市場より引用しました。

この記事が参加している募集

読書感想文