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書籍紹介『人的環境のユニバーサルデザイン』

『人的環境のユニバーサルデザイン(阿部 利彦/赤坂 真二)』という本の紹介です。

ユニバーサルデザインという言葉は大抵の方が知られているかと思います。シャンプーとリンスを区別するあのギザギザなんかで知られている、「誰もが使いやすいことを考えて設計されたデザイン」のことです。

障害の有無、年齢、性別、国籍、人種等にかかわらずさまざまな人々が気持ちよく使えるよう都市や生活環境を計画する考え方。障害の部位や程度によりもたらされるバリア(障壁)に対処するバリアフリーデザインに対し、すべての人がある時点で何らかの障害を持つことを発想の起点にしている。提唱者は米ノースカロライナ州立大学のロナルド・メイス氏。自身も身体に障害を持ち、1980年代に従来のバリアフリーの概念とは異なる「多くの人が利用可能であるように製品、建物、空間をデザインすること」をユニバーサルデザインとして定義付けた。
(コトバンクより)

そしてその概念はモノだけにとどまらず、教育の世界にも広がっています。

教育のユニバーサルデザインと言うと、まずは教室環境のユニバーサルデザインがイメージされることが多いでしょう。黒板の周辺をスッキリさせて余計な刺激を取り除く、靴箱や道具箱内のモノを置く位置を視覚的にわかるように提示するなどです。

また授業のユニバーサルデザインも最近よく聞くようになりました。流れを提示して見通しを持たせる、図や写真を提示して視覚的にわかりやすくする、授業のめあてを提示して何を学ぶのかを焦点化するなどです。

またソーシャルスキルトレーニング(SST)と言って、学校内や社会で生きていくために必要なコミュニケーションや注意、相手の気持ちを考える、感情をコントロールする、相談する、断るなどのスキルを学ぶ機会も増えているかと思います。

ですが、環境を整え、授業をわかりやすくデザインし、SSTを練習すればそれで十分なのでしょうか。そう、それだけでは駄目なのです。

例えば、相談するというスキルを練習したとして、実際の生活の中で活用することを考えたときに、何が相談できないことの原因になるでしょうか。「いつでも相談してね」と教員や保護者は言うかもしれませんが、本当にいつでもそうだんしてもいいという場の安心感や雰囲気をつくることができているでしょうか。

人的環境のユニバーサルデザインとは、端的にいえばそのような場の安心感や雰囲気のことです。

人的環境のユニバーサルデザインという言葉を、恥ずかしながら僕はそれまで知りませんでした。しかし、今ではとても大切なものだと思っています。これがなければ、整えられた環境も、練られた支援の手立ても絵に描いた餅になりかねません。少し総論から引用します。

 人的環境のユニバーサルデザイン化に取り組む際に、私がまず重要だと考えるのは、安心して学ぶことができる場をつくることです。
 もし、クラスメイトが誰かの失敗を笑ったり、誰かの意見を攻撃的に否定したり、話し合いの際に仲間はずれにしたりしたらどうでしょう。そういうクラスでは、一部の子どもだけが活躍する授業が展開されます。無視されたり、バカにされたり、おいていかれる子どもたちが出てきます。
 学びにつまずきがある子どもたちの中には、失敗恐怖の強い子どもたちが多くおり、失敗したくないからチャレンジしない、そう考えて難しいことを回避してしまう傾向があります。その背景にあるのは「学習無力感」です。努力しても無駄だ、どうせ頑張ってもわからない、自分にはできないと言う思いを積み重ね、「もう失敗したくない」「自分には無理」という強い思いを持つようになります。その結果、自尊感情が低くなっていくのです。
 また、学びにつまずきがある子どもたちは、学習場面で「わかった」「できた」というすっきり感を味わったことがありません。一方、上位の子どもたちはこのすっきり感をたくさん知っており、だからこそ勉強に対して意欲的ですし、自分自身を信頼することができます。難しいことに挑戦する楽しさも知っているのです。
 この「わかった」「できた」をより多くの子どもに提供し、つまずきのある子にも「すっきり感」を味わってもらいたいと願っています。そのためには、失敗しても大丈夫、という安心感をクラスの中に育てていくことが先決なのです。

そう、子どもたちが安心して学ぶことができる場を、わからないこと、できないことに正直になれる場を、間違いから学ぶことのできる場を、援助を求めることのできる場を、集団肯定感のある場をつくっていくために、安心感、共感、集団肯定感を育んでいくための手立てが人的環境のユニバーサルデザインなのです。

書いていて自分でもわくわくしてきました。そんなクラスなら、みんなお互いに学びあい、励まし合い、認めあい、チャレンジできるんじゃないかなと思いませんか。

本では、クラスで気になる子とそんな子たちを「気にし過ぎる子」を知ること、その背景を知ること、秩序ある(ルールでがらんじめという意味ではありません)クラス・居心地のよいクラスをつくる手立ての紹介という構成になっています。

いくつか気になった内容を引用します。

 イギリスの教育家ニイルは、「よい教師は子どもと共に笑い、ダメな教師は子どもを笑う」という言葉を残しました。まずは教師自身が、子どもの前で笑顔の自分を出せているのかを確認してみましょう。
 いま一度、問い直してみてください。「それって、本当に叱るべきことですか?」
 たとえば、「話している人のほうに身体を向ける」とか「先生のお話の間はじっと座っている」といった学習規律に関することや、「呼ばれたら返事をする」とか、「発表のときは大きな声で話す」といったいったコミュニケーションに関することなどは、本来は徐々に「育んでいく」ことであって、叱られて直すべきことではないように思います。
 また、子どもが無自覚である場合や、未学習である場合、そして発達につまずきがある場合には、何度も叱るのではなく、身につくまで何度も粘り強く「教える」姿勢が大切になります。
 どの学校にも「大物」「困難」「難解」という見方をされるケースがいます。

 現場では、とかく「どうすれば彼らを変えられるか」が議論の中心になりがちです。しかし、彼らへの対応の本質は「どうするか」という「関わり方」ではありません。教師や支援者の「あり方」です。ただ、この「あり方」というのがまた言語化しにくく、数値化もきわめて難しいところがあります。そこで「風(かぜ)」という表現を用いることにします。
 彼らは「風」に敏感です。大声で強い指導をされると、その場に「鋭い風」が吹いたと感じます。また、言語だけで一方的に指導される場面は「尖った風」だと感じます。彼らはそういう風が苦手です。だから、しばしばパニックを起こします。
 自分の関わりざパニックを誘発しているのに気づけていない大人は、たいてい、パニックを無理やり抑え込んだり、ペースを考えずにただ動かそうとしたり、機会的にカームダウンスペースに連れていったりします。そんなときほど「不穏な風」が流れます。だから、彼らはより強く抵抗します。
 その一方でわ穏やかさで包める大人のもとでは「心地よい風」が流れますから、彼らも機嫌が良いことが多いです。でも、大げさにほめられると「熱い風」だと受け取ってしまうので、認め方のさじ加減が微妙に難しいところがあります。
 彼らがまず求めるのは「無風」状態です。したがって、校内研修や校内ケース会議などでは、「いかに不用意に風邪を起こさないでいられるか」という大人側のあり方が取り上げられなければなりません。

読む度に心に残ります。そして自分自身に問いかけます。「自分は子どもたちと一緒に笑っているだろうか」「安易に叱ることに逃げていないだろうか、粘り強く対応できているだろうか」「自分の風は心地よい風だろうか」と。

もちろん僕は完璧には程遠い人間なので、日々を振り返り、少しでも近づきたいと思う身なのですが。

そして初めて支援学校に勤務したときの相担任の先生から言われた言葉を思い出します。「怒ってばっかりやと子どもが言うことを聞いてくれなくなるよ。10気になることがあったらその内怒るのは1か2にしないと、子どもとの関係が切れてしまう。そして叱ったらその分一緒に遊んであげてね」そう言われたことが、僕の教師としての歩みの方向を決めてくれました。

なにはともあれ、人的環境のユニバーサルデザインの大切さが少しでも伝わったでしょうか。

僕の拙い言葉よりも、ぜひ本を手に取って読まれることをおすすめします。この本は学校だけでなく、人としての自分の在り方を見直す機会になるかもしれませんよ。


著者の一人、阿部利彦先生は星槎大学大学院教育実践研究科教授をされていて、Twitterでの情報発信もされています。この本も先生の呟きから知りました。よければ覗いてみてはどうでしょうか。





表紙の画像はAmazon.co.jpより引用しました。