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書籍紹介『〈叱る依存〉がとまらない』

『〈叱る依存〉がとまらない(村中 直人)』という本の紹介です。

村中直人さんの本は『ニューロダイバーシティの教科書』に続いての紹介になります。

叱ることについて考える(僕の話)

ヒトはなぜ叱るのでしょうか?

この本を読む前にも叱ること、その奥にある怒りという感情について考えることがたくさんありました。

1つは自分の思い通りにならないとキレて家で暴れてしまう子への対応を考えたときです。

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(画像はNO MORE DVより)

それまで知識だけだった感情のコントロール、特に怒りの感情をコントロールするアンガーマネジメントの実践を始めました。怒りに任せて暴れる子に有効だったのは、こちらも怒りに任せて叱りつけることではなく、キレる前にその子が客観的に自分の感情や怒りの温度を把握できること、考え方の枠組みを変えること、自分で納得して選択することでした。

もう1つは中間管理職時代に激しい叱責を受けて自分の心身がしんどくなってしまったときです。

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(画像は日経クロステックより)

なぜヒトは怒るのだろうと本を読み漁りました。

怒りの原因は「恥ずかしさ(自分の未熟さを受け入れられず他人に原因を転換する)」と「甘え(相手ならこうしてくれるはずだという期待)」という話も知りました。

怒りは強い方から弱い方へ向かうということも知りました。

いわゆる依存症の人や少年院、刑務所に入っている人たちに厳しい罰を与えることが再発予防に効果的でないことも知りました。

学校の子どもたちの話でいうと、叱ることによってよくなるどころか、次年度に担任が変わったときにそれまで溜め込んでいた負の感情が爆発してより悪化することもあります。

それにも関わらず、体育会系で叱られて育ってきた彼らは厳しい愛のある指導があるから伸びると信じて疑わない人たちでした。自分が叱られると反発するのに…。

思い出してみれば、僕自身も小学校のミニバスと中学校のバスケ部は県内で優勝争いをする強豪校でした。

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(画像は千葉県スポーツ少年団より)

世代的にまだ愛の鞭という名の体罰が当たり前のようにありました。体罰を恐れながら、毎日遅くまで練習を言われるがままこなしていた僕たちのチームは、だからこそ県内で優勝争いするほど強く、でも芯の部分での強さがなかったからこそ優勝して全国大会へ行かなかったのかななんて思っています。

本書にもある桜宮高校バスケットボール部の話は自分の体験と通づるものがあります。

そんなこんなで、怒ること、罰すること、叱ること、体罰については何冊もの本を読んでいました。

〈叱る依存〉とは?

さて、この本のタイトルにある〈叱る依存〉についてです。

本のはじめにより引用します。

 この本は、誰かを「叱る」可能性のある、すべての人のための本です。

 知っていただきたいのは、〈叱る依存〉とでも呼ぶべき身近な現象です。「叱る」という行為には叱る側のニーズを強く満たす側面があり、人は、依存的な状態に陥ってしまうことがあります。しかも、「叱る/叱られる」ことにはあまりにも身近な出来事なので、どんな人でも〈叱る依存〉の当事者、もしくは目撃者となりえるのです。また〈叱る依存〉には、個人の行動だけでなく、社会のさまざまな問題や制度にまで影響をおよぼす「社会の病」としての顔もあるようです。〈叱る依存〉の問題と向き合うことは、個人のよりよい生き方を考えるだけでなく、よりよい社会を作っていくためにも、重要なのです。

 本書の背景の一つめは、私がむさぼるように学んだ脳科学や認知科学の知見です。発達障害と呼ばれる現象を正確に理解し、適切な対応をするためには、脳や神経とそれに基づく情報処理(認知)のあり方を学ぶ必要がありました。それは私にとって、発達障害だけでなく人間そのものを理解する助けとなる知識でした。特に、「誰かを罰することで、脳の報酬系回路は活性化する」という研究報告に衝撃を受けたことが、〈叱る依存〉という言葉を生み出すきっかけとなりました。こういった脳科学の視点に、私の専門である心理学の知見を加えて、本書は構成されています。
もう一つの大きな背景は、発達障害と診断されている人たちは大人も子どもも、「叱られる」ことが非常に多い人たちだということです。それは、すぐ近くに「叱る人」もたくさんいることに他なりません。「叱る/叱られる」というテーマは、常に私の身近な関心事であり、「叱る」を単純き否定することも、逆に素晴らしいことだと褒めたたえることも、どちらもあまり役に立たない現実を見てきました。必要なのは、ひていでも礼賛でもない、「叱る」と方法でした。そしていつしか、「叱る」に関する科学的な理解や適切な対応のノウハウは、あらゆる人に必要な知識なのではないかと思うようになりました。

僕自身も支援学校で勤務する中で、ごくごく身近に「叱る」があります。そして、教員という強い立場で叱ることで子どもをコントロールしそうになっていると感じる瞬間はないとは言い切れません。

「叱る」とはなにか

この本では「叱る」という言葉を次のように定義しています。

言葉を用いてネガティブな感情体験(恐怖、不安、苦痛、悲しみなど)を与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為。

ポイントは「他者をコントロールしようとする」行為だということと、「(受け手側の)ネガティブな感情体験」を利用しようとする行為だということです。

この視点で考えてみると、「叱る」も「怒る」も「罰を与える」も相手にネガティブな感情を与えているという点では大差はありません(よく言われる「叱る」と「怒る」は、叱る側の感情の違いでしかありません)。

ネガティブな感情を受けると、そのヒトの脳内では「防御システム」が働き、すぐに本能的に戦うか逃げるかを判断します。叱られた子が言うことを聞くのは、この防御システムが働き、ネガティブな感情を受ける状況から逃げようとするからです。申し訳なさそうに「ごめんなさい。もうしません」と答えるのは、その状況から逃れるためなのです。

ここで重要なのは、この防御システムの働き、叱られたから謝るというのは「苦痛から回避」するための行動でしかないということです。叱られたときの子どもの頭の中にあるのは、苦痛から逃れること、「叱られたときに、どうしたらよいのか」であって、叱る人が求めている「本来はどのように振る舞い、どうすればよかったのか」という学習には繋がらないのです。

「叱る」の効果は非常に限定的なのです。

「叱る」に依存する

「叱る」の効果は限られているのに、なぜこんなにもヒトは「叱る」ことをやめられないのでしょうか。

1つは、脳の機能として「悪いことをした人に端を与える「処罰感情の充足」が、ヒトにとって非常に魅力的な報酬となっているようです。

つまり、人は誰かを叱ることで、気持ち良くなったり、充足感を得たりしてしまうのです。

また「叱る」という行動は多くの場合、叱られた人の回避行動、「ごめんなさい!」という謝罪や「わかりました!すぐにやります!」という行動を引き出します。これは「叱る人」の視点からすると、自分の叱るという行動が、相手の望ましい行動をコントロールしていると感じる、自己効力感とも呼ばれるやみつきな感情を得てしまうのです。

このような、処罰感情の充足や自己効力感といったごほうびがあるため、人は無意識のうちにどんどん叱るようになってしまうのです。

「叱る」ことがある種の快感につながるということは、本来的な目的が達成されていない状況が続いていたとしても、ずっと叱り続けてしまう悪循環におちいりやすいことを意味しています。例えば「子どもが自発的に部屋を片付ける」という未来を望んでいる親がいるとしましょう。どれだけ叱っても、まったく子どもの学びを促進しておらず、何も問題が解決できていない状況が続いています。叱った直後だけ子どもは片付けをしぶしぶ行い、いつまでたっても自発的に片付けようとはしません。そんな中でも、何度も繰り返し、ことになるのです。そしてその結果、「叱る」が長期化し、慢性化し、日常化してしまいます。

さらに一度泣き出すほどの叱責などの強い刺激を受けると、しばらくの間、叱られた側が軽い小言程度でも過敏に反応するようになってしまいます(鋭敏化)。しかしそれは幻の成功体験でしかありません。鋭敏化は長続きしないものですし、幻の成功体験を追い求めて「叱る」を超えた強烈な刺激である、「罵倒」や「人格攻撃」「罰」を使用することでしか鋭敏化を引き起こすことができずになり、際限なくエスカレートしてしまう危険性があるのです。

・・・

どうですか?

この本を読んで自分を冷静に振り返り、依存症にも似た、叱り続ける状況、「叱り続けることを正当化している」状態になったことのある自分を思い出しました。

僕が叱ることを少しずつ手放すことができた話

叱ることについて僕自身が大切にしている言葉や経験があります。

1つは支援学校で働きはじめたばかりの頃、あるやんちゃな子のいたずらや暴言、暴力に対し、「その子のためにやめさせないと」と思い、その都度叱っていた僕に、相担任の先輩が言ってくれた言葉です。

「子どものあかんこと全部叱ってたらあかんで。子どもの心が離れてしまって、こっちの話を聞いてくれなくなるから。だから叱るのは10個のうち1個か2個にしとき。それで、叱った分、いっぱい遊んで、子どもと関係をつくってあげて」

この言葉のお陰で、叱ることのリスクを知ることができました。

また大学受験が終わり緩んでいる生徒に対して、「このままの学力では大学へ行っても授業についていけない。なんとかしないと」「もっと残りの限られた時間でできる限りのことを詰め込まないといけない」という思いから厳しい叱責を繰り返してしまったことがあります。

先輩からその関わり方を問われ、また大学生になって伸び伸びと学び、経験を重ね、成長していったその子を見て、なんのことはなく、僕は僕の勝手なエゴでその子をコントロールしようとしてできずに苛立っていただけなんだと気付きました。

当たり前ですが大人と子ども、教員と生徒という関係性であっても、相手はあくまでも独立した人格をもつ個人です。その子の人生を決定するのは、支援する僕たちではなくその子本人です。僕たちにできるのはアドバイスとサポートと応援くらいなのだとそのときに気付きました。「子どもに努力を無理強いするよりも、やりたくなるような工夫を考えよう」と考えるようになりました。その子の好きなものを積極的に活用するようにもなりました。

また、ある研修会で講師の方がこう言われました。

「叱るだけならその辺のおっちゃんでもできるんですよね。でも僕たちは特別支援教育のプロなんだから、叱るじゃなくて、子どもたちがわかりやすくなったり、やろうと思うようなやり方を提示できないといけないんですよ」

その言葉から、子どもになにか課題や問題行動があるときには、その理由や背景を考えたり、子どもがやりたくなるような工夫を考えたいなと思うようになりました。障がい特性やさまざまな支援方法を学ぶようになりました。

こうして少しずつ叱ることを手放せたのかなと思います(仕事ではできても、わが子となると難しい場面がまだまだあります)。

社会にも広がる〈叱る依存〉

少年犯罪への厳罰化やSNSでの炎上など、社会全体が処罰感情の充足を求めて〈叱る依存〉に陥っているのではないかという指摘には、ゾクリとするものがありました。

私たちは再犯率の低下を求めているのでしょうか?それとも処罰することそれ自体を求めているのでしょうか?

スポーツ指導での理不尽に耐えた実績は、遠い昔の思い出として美化され、「厳しい指導をしてくれた恩師に感謝する」エピソードが語り継がれます。でもそれは、その厳しい指導についていけた側の感覚でしかありません。厳しい指導についていけずに辞めたり、追い詰められていった人たちを忘れてはいけません。

また目的のための自発的な我慢と、他者から強要された我慢は、まったく別の体験です。他人から与えられる「強要された我慢」や「理不尽な苦痛」では、人は強くもならないし成長もしないのです。

さらに理不尽に耐え続けるということは、「欲しい、やりたい」という気持ち自体を奪い、耐え続けることで、人はそもそも「やりたいことが何かわからない」という状態になってしまう危険性が高くなるというのです。

ここで押さえておきたい重要なことは、冒険モードの状態でうまく振る舞うためには経験と学習が必要だということです。誰でも最初はうまくいきません。自分の気持ちばかりが先走って状況に合わない行動をしてしまったり、中長期的な視点を持たずに振る舞って後悔したりしてしまいます。そうした失敗を繰り返して試行錯誤しながら、人は「冒険モード」でうまく行動する能力を身につけていきます。子どもたちからその機会を奪ってしまうと、「やりたいことをする」能力の獲得を阻害することにもつながるのです。

僕たちが子どもに求めるのは、自分で自分をコントロールする力を身につけてもらうことでしょうか?それとも僕たちの思うがままに子どもをコントロールすることでしょうか?

〈叱る依存〉におちいらないために

まず私たちは自分自身に潜む「叱りたいという欲求」を自覚し、「叱る」とうまく付き合う方法を学ぶ必要があります。

「叱る」は、目の前の困った状況への「危機介入」か、特定の行動をしないようにしてもらう「抑止」の二つだけです。根本的な解決方法ではないので、問題となる状況が無くなった時点ですぐに「叱る」を終える必要があります。

 まずは、あなたが「権力者」であることを自覚しましょう。

  程度の差こそあれ、「叱る人」は何がよいとされ、何が望ましいのか、相手に求める「あるべき姿」を決めています。そして「あるべき姿」と現実にズレが生じた際に、そのズレを正そうとして叱りたくなるのです。だから「叱る人」に求められるのは、その「あるべき姿」が本当に適切で妥当なものなのかを自省することです。

「普通」「常識」「当たり前」から卒業するために、ニューロダイバーシティのように、人間は多様で個性的な存在だということを学ぶことも大切です。

またもぐら叩きゲームのように、問題行動が起きてから叱るのではなく、問題が起きる前に対応する「前さばき」も重要です。子どもの実態を知り、問題行動の原因を考え、予測する力を高めることで、「前さばき」はうまくなります。

その子ができるような環境ややり方などの工夫を考えることもそうです。

その子と話し合って、本人がどう思っていて、どうしたいのかを理解することや、どうするのかを本人が選択して決定するというプロセスも大事です。

そんなことを考えていると僕の経験や学び、気づき、特別支援教育という武器があったから、僕は叱ることを少しずつ手放すことができたのだということに気付きました。

まとめ

この本のあとがきで村中さんは述べられています。

 この本の冒頭に、私は「誰かを叱る可能性のあるすべての人のための本」だと書きました。

 ですが、全てを書き終えて改めて読み直してみると、この本は自分自身に宛てた戒めの手紙のようだなとも感じます。職場や家庭において「状況を定義する権利」を幾ばくか持っている私にとって、叱る依存は人ごとではなく常に向き合い続けなくてはいけない大きな課題です。もちろん、叱る依存という言葉は私の作業仮説に基づく概念であり、心理学や精神医学の用語というわけではありません。けれどこの言葉はずっと私の頭の片隅に居座り続け、「叱るに依存し始めていないか?」「いまの対応は本当に適切だったのか?」と、ことあるごとに語りかけてくるのです。

この本は僕にとっても、「叱るに依存していないか?」と問いかけてくれる本でもありました。

それと同時に、今までの自分の経験や学び、大事にしていたものの意味を教えてもらえた本でもあります。

よければまた読んでみてください。

著者の村中直人先生は心理士として、Twitter(@naoto_muranaka)ブログを通じてASDやニューロダイバーシティ関連の情報を発信されています。よければ覗いてみてはいかがでしょうか。



表紙の画像はAmazon.co.jpより引用しました。