教師という職業を「身体化」している教師たち
職業選択の自由というのがあります。
これは日本国憲法22条で以下のように規定されています。
我々の生きる社会では、職業を自由に選択することができる。これは、まあ、当たり前ですね。そして、自由に選択できるのですから、「職業」と「その人」というのは実は「関係がない」というのも自明です。しかし、これは歴史的に見れば画期的なのです。
例えば、江戸時代は「士農工商」という身分がありました。農家に生まれた子どもには「職業選択の自由」なんてものはありませんでした。いくら武芸が達者であっても「農民の子は農民」になるしかなった。もしも職業が自由に選べてしまったら、江戸時代は260年も続かなかったでしょう。数多くの農民が一所懸命に働いた農作物で、ごく僅かな武士の階級は生きていたわけですから。
令和の今は、士農工商という身分はもちろんありません。「教師の子は教師になりやすい」というのはよくある話ですし、これは医者でも代議士でも当てはまりますが、それは強制ではない。会社の社長の息子に生まれて、その会社を継ぐということだって、「その他の選択肢」と同じように、選ぶ権利がその子にはあります。
だから、「職業」と「その人」は関係がない。
でも実は、関係してくるのだよ、という話をします。
フランスの哲学者であるロラン・バルトの概念としてエクリチュールというのがあります。しかし、この概念を説明するのは、日本ではなかなか難しい。というのは、日本にはフランスほど「階級格差」が無いからです。
内田樹先生に言わせれば、エクリチュールというのは「方言」みたいなものだそうです。内田先生は「局所的に形成された方言」という表現をしています。そして、フランスでは「どんな言葉を使うか」によって「階級」が明示されてしまう。下層ということが知れ渡ることは、周りから「侮られる」ことを意味する。
これ、地方から東京圏に出てきた学生さんとかは身に覚えがあるのではないですかね。渋谷で青森の「津軽弁」をベラベラ喋ることが躊躇われるというエピソードは僕もドラマなどで観たことがあります。別に、青森も東京も階級格差はないはずなのですが、田舎の側が勝手に都会を上位にするという価値観は、まあ、わからなくもないです。
そして、このエクリチュールは、先ほど「方言」という例えをしたのですが、実は「言葉」だけでなく「振る舞い」などにも影響を及ぼすそうなのです。これについて、内田先生の例えを引用します。
ヤクザの例がわかりやすいですね。ヤクザが職業なのかどうかは置いておいて、確かに我々は「職業に応じた振る舞い」というのを意識しているような気がします。
女性の服屋さんの店員さんの甲高い「ぃっらっしゃいぁせ〜」みたいなかけ声は、どこでも聞くことができるし、政治家が街頭にたてば、みんな同じような笑顔で握手を求めてくるので、個体識別が難しい。車の中で缶コーヒーを飲みながらスマホをいじる工事関係者を見つけることも簡単です。
つまり、我々には「職業選択の自由」は確かに存在するが、一度、その職業を選んでしまえば、職業というエクリチュールにコントロールされているということです。そして、そのコントロールの影響力は、自分が考えている以上に大きい。「ファッション」も「身体運用」も「表情」も「価値観」も「美意識」も、全部に及ぶと考えると、なんだか恐ろしくなりませんか。
では、教師というエクリチュールは、我々教師にどんな影響力を持っているのでしょうか。
ここでは「友だち」という概念に焦点を当ててみましょう。
教師という職業に勤める人の多くは「子ども」に対して「友だち」を作るように求めます。そして、それを求める以上、「友だちがいない」という状態を良しとしないことも当然です。「すべての子どもには友だちがいないといけない」という価値観が歪んでいることは、多くの人に同意してもらえると思いますが、この価値観が教師という社会集団にはなかなか受け入れてもらえない。
先日、遠足に行ったときのお弁当の時間、ある先生がお弁当も食べずに子どもの間をウロウロしていたので、「どうかしましたか」と伺ってみたところ、「一人で食べている可哀想な子がいないかを点検していました」と言うのです。この先生は「一人でお弁当を食べている子ども」は「かわいそう」だと言う自身の判断を少しも疑っていなかったのです。
また別のある日、児童にあるアンケートを取っていると、その中の項目に「休み時間には、誰と遊んでいますか。名前を書きましょう」と言うものがありました。このアンケートの作成者にとって、「休み時間は誰かと遊ぶもの」と言う考えがあり、「一人で読書をして過ごす」子どもは想定外だったということです。
いずれの事例も極端な事例かもしれません。教師集団の全てがこれらのエクリチュールを内面化しているわけではないでしょう。しかし、仮にエクリチュールというものがあるとしたら、実は、それは我々の中の深いところで、もう我々には違和感が持てないくらいに内面化してしまっているということを、僕は考えてしまうのです。
例えば、いじめ問題は典型です。「どうしてあれほどまでにいじめが悪化するまで放置しているのか」と、他のクラスを覗いてみて驚くことがあります。しかし、学級担任にとっては「いじめじゃありません。じゃれあっているだけです」という認識であるということはたくさんあります。
不登校問題もそうです。
学習、特に算数科が苦手な子に不登校が多いという感覚があるのですが(エビデンスはありません)、そういう子が、学校に来れなくなるまで「苦しめる」教師はたくさんいます。休み時間返上で九九(苦苦?)の暗唱をさせるなど、です。でも、そういう教師に聞いてみると、「二年生の間になんとしても、九九を覚えさせてあげたかった。三年生で苦労をさせたくないから」と「自身の善意」を述べることは多々あります。
「子どもができるようになる」というのは、確かに素敵なことかもしれませんが、学校には、先ほどの事例のように「できるようなったけど、嫌いになった」では本末転倒です。でも、教師のエクリチュールは「子どもたちのできた」を求めているのかもしれない。
そう考えると、なんだか怖くなりませんか?