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道徳の「教科化」による<権威>は、現場を服従させる

「特別の教科 道徳(以下、道徳科)」には「道徳的諸価値」というのが列挙されています。それらの諸価値の「理解を基に」、さまざまな「態度を育てる」というのが道徳科の目標です。

しかし、子どもたちの「態度を育てる」というのがいかに困難なのかというのは想像に難くないでしょう。一年中、道徳科のことだけを深く悩み続けられるのならば、指導方法の工夫やら改善も出てくるのかもしれませんが、道徳科は「週に1時間」ということもあり、多くの教員からは「二の次」にされがちです。

たしかに「特別の教科」となってからの道徳科の位置付けは現場でも変わってきている点はたくさんあります。例えば、「週に一時間は必ずしましょう」とか「評価があるので、適当にやらないでくださいね」みたいなものは各委員会の研修でも口酸っぱく言われていたみたいです。それは、裏を返せば、それまでの道徳が「ないがしろに」されてきたことでもあります。

道徳教育の専門家でもある中戸義雄氏の意見を引用してみましょう。この文章は道徳が「特別の教科」になる前の文章ですので、「教科書も評価活動もない」という状況での文章です。

ここで確認すべきは、道徳授業(道徳の時間)は各教科,特別活動や総合学習の時間と並んで道徳教育を実践する1つの領域に過ぎず,道徳教育は学校教育全体を通して行われるということである。そのため,「あえて道徳授業に力を入れなくても,普段の教育で指導を行っているから」ということがいわれる場合もあり,年間標準時間に対して道徳授業が実施される割合は他の教科と比べても低いことが多い。

『道徳教育の可能性』中戸義雄・岡部美香編著 ナカニシヤ出版 2005 p10

たしかに、教科以前の道徳はこのようなイメージでした。例えば、「テストの返却の時間」とされたり、「図画工作の作品作りが遅れている子の時間」とされたりというのは常態化していたいと思います。「学校生活全体が道徳なんだよ」という言説は、若手の頃に先輩教員からも言われたことを記憶しています。

また,他の教科とは決定的に異なる点がある。それは道徳授業にはテスをもなければ通知表などへの記載もない。授業を行った上で現れてくるはずの結果,いい換えれば評価活動に関してはほとんど何も行われていない。もちろん,学習指導要領にあるような道徳的な心情,判断力,実践意欲や態度などを評価することが可能であるかどうかについては議論の余地はあるだろう。しかしながら,評価がないという事実は道徳授業に対しての教員の取り組みと無関係ではあり得ないはずだ。この点だけを考えれば,忙しさにかまけて手っ取り早く一話完結型の物語資料(最近では規制のビデオ教材も)を使い,おきまりの展開で授業を済まそうとする教員がいてもさほど不思議ではないのかもしれない。

同書 p10、11

道徳教育の専門家の苦悩が滲み出ているような文章です。だからこそ、「特別の教科 道徳」というのは要請されたのでしょう(もちろん、政治的な文脈も無視できませんが)。一方、ここで「特別の教科 道徳」に与えられたモノはなんでしょうか。それは「教科科」という「権威」です。

(以下から「ここまで」の文章については、さまざまな人から「疑義が生じている」ため信頼性に欠ける部分があるかもしれません)

「教科」と「領域」という言葉があります。

教科は「国語・算数・理科・社会」などのいわゆる「教科書」がある学習分野を指し、これらは「中学や高校では免許がある」という特徴があります。学び方についても、教科書があるので「各学年ごとに学ぶべき内容」が定められており、「体系的な学び」と「数値による評価活動」も行われていると言えます。

一方、領域は「総合的な学習の時間・特別活動・外国語活動(3・4年生のみ)」です。「教科書」はありませんし、「免許」もありませんし、「体系的な学び」や「数値による評価活動」もありません(というか、適しません。よって「文章による評価」)。だから、どうしても、現場感覚で言えば、「教科>領域」という印象は拭えません。

(「ここまで」)

では、「特別の教科 道徳」はといえば、「特別の教科」という名称はもらえたものの、「評価活動」は「文章表記」ですし(これは総合的な学習の時間と同じ)、「免許」もありません。しかし、「補助教材」という扱いだった書物が「教科書」へと格上げされ、国によるチェックである「検定」が始まりました(これには賛否両論ありますが)。

こうして「教科科」という「権威」を獲得した道徳科ではありますが、先述の通り「週に一時間」という標準時数はそのままですし、「テストがあるわけでもないから」と、現場ではやはり等閑に付されている(適当に扱われている)という印象は引き続きあります。でも、「特別の教科」なんだから「しっかりやれよ」という圧力は文科省委員会管理職からはある。結果として、指導要領に列挙されている「道徳的諸価値」は「とりあえず、しっかり教えよう」という方向性に落ちついてくるわけです。これを現場風に意訳すれば、「教科書に載っている内容は1から35まで順に抜けなく教えよう。(標準指導時数が35時間なので、教材数も35+3くらい)」ということになります。

実際、「教科化」後は、教育書も「道徳」の授業作りに関する書籍の売り上げが好調だったようです。これは、文科省などからの「しっかりやれよ」という圧力を感じつつ、どうしたらいいかわからないという現場の声の表れですね。

さて、「権威」が生まれると、人はそこに「服従」させられます。実際、多くの教員は「教科書」という権威に服従させられ、授業作りも「教科書通り」となりがちです。これは、以前も指摘しましたが、「国語科みたいな道徳科」というのも、まさにその現象の一つです。「教材が国語科そっくり」であれば、「教科書通り」の授業をすれば、似てくるのは必然です。

「権威」というのは「権力」による「威光」なわけで、道徳が「ぞんざいな扱いを受けていたから」といって、そんなものを付与させてしまった代償として、道徳科は「形式主義」やら「徳目主義」を強めてしまったという面は無視できないと思います。

「権威」は「その価値が問い直される」ということは、基本的にありえません。権威は「服従」を求めるからです。権威への反乱は、権威者が最も恐れることであり、それは歴史上は武力で鎮圧されるから、逆に武力によって権威が倒されるかのいずれかです(そして、新たな権威が誕生する)。

さあ、ここで学習指導要領の総則にもある、道徳教育の部分を引用します。

道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき、自己の生き方を考え,主体的な判断の下に行動し,自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うことを目標とすること。

学習指導要領 第1章 総則 2の(2)より

「自己の生き方を考え」や「主体的な判断の下に行動」や「自立した人間」という言葉が、いかに「権威」とは程遠い言葉なのかと感じてしまいます。

この目標と実際の「距離感」を埋めるのは、道徳教育を支えている現場の教員しかあり得ないののです。