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学校は選抜機関でいいのか

「どうして学校に通わないといけないの?」と子どもに聞かれたら、あなたは大人としてどのように答えるのが正解なのであろうか。

「学校で勉強すれば、将来の職業の選択肢が広がるわよ」
「学校で勉強しないと、将来の職業が見つからなくて困るわよ」

いずれの解答についても、学校を「将来の職業」と結びつけて考えていることがわかる。つまり、学校での勉強は「将来の職業のため」と言うことになる。さらに言えば、学校での成績が「将来の職業」に影響することも、子どもたちは感じることができるだろう。

「将来」という「未来」に対しての「不安」を煽りながら、大人たちは何とかして子どもたちを学校へ通わせているのかもしれない。

それでも、上記の議論からわかることは「誰でも学校で勉強を頑張れば成功することができる」という一種の信仰である。そして、この信仰はとても日本的である。米国のある学者はこのような日本的な信仰を看取って「頑張る」と言う論文を書いたという話を聞いたことがある。

近代学校教育が始まったのは19世紀ごろである。そして、19世紀後半にアメリカでは「社会ダーウィニズム」という考え方が興隆していた。これは、ダーウィンの進化論の解釈を人類にまで拡張したものであった(進化論を人類に適用することに対してダーウィン自身は慎重であったと言われる)。

以下、教育評価論を専門とする田中耕治による説明を参照しよう。

どの種でもその種の生存可能な個体数以上の個体数を生産する(マルサス説)ので、個体間に生存競争を生じさせる原因となると指摘する。その結果、少しでも生存上に有利な変異を持った個体が、最適者生存(または自然選択の結果)として生き残り、その有利な個体差を遺伝によって次代に伝えることによって、やがて新しい種の登場をみることになるとされる。
(中略)
人間社会においても最適者生存の法則が貫徹して、最適者(勝者)が生存競争を通じて社会的に優位な立場を占めるとするもので、しかもこの事態こそ人間進化の健全な過程であるから、国家による制限や社会の変革によって競争に干渉してはならないと主張した。

『教育評価』 田中耕治著 岩波書店 p19

この社会ダーウィニズムの考えは、当時レッセ・フェール(自由放任主義)で法人資本化を強力に推進していたアメリカの企業家にとっては、自身の立場を正当化する思想として大いに歓迎されることになる。

人間はそれぞれに異なることは、当然である。
そして、その差異の中でも「有利な変異」というものがあるらしく、それを競争を通じて選抜していこうとするのが社会ダーウィニズムである。

これは日本的な「誰でも頑張れば成功する」という信仰とは異なる。そもそもの素質としての「有利な変異」を持って生まれた個体を選抜していこうというのだ。その「有利な変異を持った個体」をどのように選抜するのか、という点に関して、ならば測定していこうというのがアメリカ教育学から生まれた「メジャメント運動」である。

「教育評価」という言葉が日本に紹介されたとき、このメジャメントを進める教育心理学を学んだ学派が中心となったため、教育評価にこの「メジャメント」的な価値観が入ってしまったのだが、本来、「メジャメント」は「教育測定」と訳されるべきであり、「教育評価」は「エバリュエーション」とするべきである、という考えもあるが、これについてはまた別の記事で考察しよう。

本質主義者であるバグリーはこのような社会ダーウィニズムの持つ「選抜的な教育観」に対して以下のような批判を加えることになる。

バグリーの批判は、「メジャメント」運動に浸透していた社会ダーウィニズムに向けられた。すなわち、もし生得的知能によって教育の可能性が制限されるならば、学校は教育機関であるよりも生得的知能の量を証明し、優秀児を選抜する機関に過ぎなくなる。しかし、民主主義社会における公教育は、庶民の子どもたちに、人類文化の遺産を普及することによって、主権者としての統治能力を形成する役割を担う。したがって、リーダーの質はまさに庶民の知性のレベルに依存するのであって、その逆ではないと強調される。

『教育評価』 田中耕治著 岩波書店 p22

仮に社会ダーウィニズムの理論が正しかったとしても、それは民主主義社会には適さないというのがバグリーの主張である。なるほど、一部のエリート階級しかこの世界の統治に関わらないのであれば、その他大勢は愚鈍で無能でも構わないのかもしれない。神のようなエリートが作る世界で、その他大勢はのんびり暮らせばいいことになる。

しかし、民主主義社会では、その他大勢も主権者なのである。民主主義社会は、全ての成員の成熟を要求する。そうでなければ、民主主義は成り立たない。優れたリーダーを選ぶためには、その他大勢も優れていなければならないのが民主主義社会なのである。

そういう意味で社会ダーウィニズム的な選抜的教育観は民主主義社会には馴染まないのである。

次は進歩主義者として多大な影響力を持った教育哲学者であるデューイの意見である。

すなわち、言うところの「個人差」とは、統計的基準(標準化)によって量的に分類されたものであって、決して固有の質と内面の自由を根本的徴表とする個性(individuality)の差を捉えてはいない。しかも、その「個人差」の規準となっているのは、生理的な精神能力ではなく、現在の社会の成功者の知性を反映しているにすぎないと指摘する。したがって、個性の分析のためには、量的基準もひとつの方法ではあるが、絶対的なものではないと強調する。

同書 p22、23

デューイの指摘するところでは、現行の学力至上主義は、「現在の社会の成功者」による「保守的な理論」であるということになる。仮に社会ダーウィニズムの考える「有利な差異を持った個体」があったとしても、それは「普遍的な有利さ」ではなく、「現代の社会の成功者」が持ち合わせていた要素であり、それを守り続けるという側面からも、これは「保守的」と言わざるを得ない。

しかし、教育を「過去の価値観を守り通す」という側面だけで語るのは間違っている。教育基本法の教育の目的にもあるとおり「形成者」を育てることこそが、教育の目的なのである。既存の社会に適応するだけの「追随者(フォロワー)」を育てるのではなく、「形成者(フォロイー)」を育てることも視野に入れるべきなのだ。

さらに、デューイは測定で用いられる「量的基準」についても、それは「絶対的なものではない」と強調する。これからの時代をVUCA(ブーカ)と表現することにもずいぶん慣れてきた。VUCAとは「Volatility:変動性」「Uncertainty:不確実性」「Complexity:複雑性」「Ambiguity:曖昧性」の頭文字をとった言葉である。

例えば、今の時代は「英語が話せる」というのは一つの「有利な差異」なのかもしれない。しかし、同時通訳アプリがもっと進化すれば、ドラえもんの「ほんやくコンニャク」を全ての人が使えるようなものであり、それは「有利な差異」ではなくなる。

このように19世紀後半に勃興した「社会ダーウィニズム」への批判を考察してみると、翻って現代の日本の学校教育のあり方も考えさせられる。

学校教育はどのようにあるべきか。
テストをして、できる子を励まして、できない子を選別して、不登校として排除するようなあり方でいいのか。
そもそもテストの内容は、本当に「必要なこと」を測っているのだろうか。
そもそもテストをする意味はあるのか。

我々大人の教育観こそが問われないといけないのかもしれない。