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「なりたい職業」を聞くの、辞めませんか?

今回は以下のツイートの内容を掘り下げて書いていこうと思っています。

子どもたちに「将来の夢は?」と聞くのは、学校の職業病みたいなものかなと思っていますが、僕はこの質問には問題があるなと思っています。その理路をいかに述べていこうと思います。

まず、上記ツイートにも書いた通り、小学生程度でも思いつくことができる職業はかなり限定的であるという問題点があります。

例えば、「プロスポーツ選手」というのは、過去にもこの手のランキングで上位だったかなと思いますが、そういう職業を想定する児童は「スポーツに興味がある」のでしょう。しかし、「興味がある」から「想定できる職業」はあまりに限定的です。「スポーツに関係する仕事」が「プロスポーツ選手」しか無いというのは、もちろんかなり「狭い視野」であることがわかります。

「スポーツに関係する仕事」だと、選手をサポートするコーチやスタッフ、チームの運営に関わる事務方の仕事、スポーツチームの広報や、スポーツ記者だってあるでしょう。「仕事」に限定しなくても、「地域のスポーツチーム」でボランティアを活動することも「広義の夢」としてもいいでしょう。もちろん、ここに挙げきれないくらいの職業が「スポーツ関係の仕事」にはあるはずです。

つまり、この世には幾千万の職業が存在しており、さらに言えば、職業ではない形で「興味あるスポーツに関わる」活動だってある。でも、そういうことは、実はあまりアナウンスされないし、されたとしても意味がない。ほとんどの子どもたちは「今、ここ」を生きているのであり、「将来の自分」なんて描けないのです。それは何も問題がありません。だって、子どもたちは「子ども」なのですから。

「将来をうまく描けない」というのは、立派な「子供の権利」だと思います。

もし、現在の子どもたちに「将来の自分の姿をリアルに描く」能力の涵養を求めたら、それは悲惨なことになるでしょう。「AIに職業が乗っ取られる」とか「不要者階級が生まれる」とか、「未来予測が明るい」のは、1960年代の高度経済成長期くらいであり、僕みたいなバブル後に生まれた世代は、「失われた◯十年」の世代です。

だから、その権利を大切にして欲しい。
にもかかわらず、社会は子供たちに「夢を持て」と迫ってきます。

よく引用される例として、メジャーリーガーの大谷翔平や、少し前だとサッカーの本田圭佑がありました。彼らは小学生の頃から「将来の夢」を具体的に描き、それを達成した「稀有な例」です。その例を引っ張り出してきて、子供たちに「夢を持て」と迫る。

しかし、これらは「稀有な例」であり、それは「特殊なケース」なのです。稀有ということは「稀(まれ)にしか起こらない」わけであり、その多くは「起こらない事例」なのです。つまり、実は社会の要請は、多くの子どもたちを「自分にはできなかった」という「負け戦」へと誘うものだったのです。

先ほども述べた通り、子どもたちの描ける未来は「狭い視野」によるものです。「スポーツが好き」から描ける職業は「スポーツ選手」だけなのです。だから、そんなものは描けなくていい。ただ「スポーツが好き」という気持ちを持ち続ければいい。「スポーツ選手」になれる確率は低いですが、「スポーツを好きでいられる」確率は低くありません。好きなものがあれば、それは人生の支えになるでしょう。

「スポーツ選手になれない自分はダメだ」と落ち込ませるよりも、「大好きなスポーツと関わり続ける」というモチベーションを持ち続けさせる方が良いし、きっと大谷翔平も本田圭佑もその手のモチベーションは持っていたことでしょう。


では、どうして、社会は子どもたちに「将来の夢を持て」と迫るのか。

もうこれは簡単ですね。それは「早く将来の職業を決めてしまえ」ということです。もっと露骨に言えば、「寄り道せずに、手に職つけて、経済成長に寄与しろ」ということです。

勤労は確かに国民の義務ではありますが、「勤労する人間を作る」ことに必死な社会は、子どもたちに優しくありません。そんな社会は子どもたちを「金を稼ぐ人材」としか見ていないからです。「人材」という言葉を使う人は、人間を「非人間化」しています。「人を経済の材料」と考えている人が「人を人材と呼ぶ」のです。ここには「金を稼ぐ」という「有効性」しか見ない「狭い人間観」が如実に現れているのです。

先日、キャリアパスポートの一環で、子どもたちにプリントを書かせていました。それは委員会が用意したプリントだったのですが、そこには「将来の夢や目標に向かったがんばっていますか」という項目がありました。「小学生のうちから、そんなことを意識させなくてもいいのにな」と思いながら、その項目に「あまりできていない」と答えた児童のプリントをかなしく眺めていたのでした。

子どもは「のびのび育てる」という価値観は、一体、どこへ行ってしまったのでしょう。