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本を味わうというのはたぶん文字通りむしゃむしゃすればいいだけの話 2020/05/09

 昨日張り切って運動したせいで全身が筋肉痛および倦怠感の中、朝起きて日記を書いたり本を読んだりしていたところ、娘たちも早起きしてきて最近の日課の妖怪ウォッチを見始めた。(PS4-AmazonPrime-TV)こうなると集中できないので、こちらも Netflixでなんとなく見始めてしまった『涼宮ハルヒの憂鬱』の続きを再生してみたりする。(iMac-Netflix)伝説の「エンドレスエイト」がまさに始まるところで、同じ物語がループするらしいと言う情報は知っていたけれどこれがまた恐ろしくループするのでポカーンとなってしまい、最初のうちは細部の違いを楽しもうと思っていたものの、4回目以降はその気力も削がれ、お腹が空いたので551通販でゲットしたシュウマイを温めるなどして過ごした。

 その後は久しぶりに谷根千方面へ散歩。お店はほとんど閉まっていたが、ひるねこBooksさんに立ち寄り、家族で欲しい本を思うままに買った。北欧のヴィンテージ絵本のフェアをやっており、読めないのだけどかわいい。妻がさんざん悩んだ挙句、1冊買っていた。悩んでいる間、娘たちにアイスモナカバニラを食べさせ、退屈を紛らわして、僕はといえば帰路立ち寄ったいかにも地元の酒屋さん風な酒屋で「白州」を入手し、これでまだまだ飲めるぞと言う安心感と共に帰宅、直前に買った唐揚げとビールの組み合わせが控えめに言って最高だった。

 少々お仕事モードな読書をした後ということもあり、本能がバランスを取ろうとしているのか、阿久津隆『読書の日記』を読み進める。もはや『読書の日記』を読むことはとても贅沢なことになっており、読み終えたくないので他の本の合間に、贅沢品としてとってある感じになってきている。

そんなことで味わえるものではない。それが楽しいゲームになりうることも理解するけれど、そんなことで味わえるものではない。というか本を味わうということがどういうことなのか、学校であるとかはたぶんまじめに考えていなくて、本を味わうというのはたぶん文字通りむしゃむしゃすればいいだけの話であって、おいしさにため息をついたりすればいいだけの話であって、言語化するにしても「おいしい」くらいで十分なはずであって、食べたものの味や日々を言語化することが食べ物を味わうことの必要条件ではないのと同じように、食べたものをただただ「おいしい」と言って食べていたらそれで十分に豊かな体験になるように、本も読んだものの意味や印象を言語化することが本を味わうことではまったくないはずで、ただ「おいしい」と言って読んでいたらそれで十分に豊かな体験になるはずだった。
阿久津隆『読書の日記』P.590

 いや、もう、ほんと「おいしい」なぁ。ちょっと長めに引用したけれど、この引用部分を毎回打つのが結構大変で、大変だったのだけれど、今朝方Google Lensという神アプリの存在を知り、早速試してみた。Google Lensでは写したものをすぐに検索できたり、テキストを認識してコピペしたりできる。スマホで引用したい箇所を撮影して、テキスト認識させた後、PCにコピーという機能が神機能で、どうやってやってるのかはさっぱりわからないのだけど、スマホでPCにコピーを選ぶと、PCのクリップボードにコピーされてそのままペーストできる。日本語の文字認識はまだまだの部分はあるけれど、多少手直しすれば済む程度なので、引用の捗り方が桁違いになりそうな雰囲気。


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