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わたしのこと

ご挨拶

はじめまして。
大学3年21歳の女です。
大学では社会福祉の勉強をしています。

はじめに、バカ長いです。
まとまりもないです。
でも読んでくれたら嬉しいです。

私は「病み垢」やそれを利用する人に関心があり、Twitterなどを使ったネットアウトリーチ(SNSアウトリーチ)活動をしています。

今回は私がネットアウトリーチに興味を持った背景として、今までの人生を書き記したいと思います。

これを書く理由

なんちゃない、ただの一般人の人生に、誰が興味を持つだろうかと思います。

でもとりあえず、目を通してほしいです。

「もっとしんどい人」が居ることも分かっていますが、こういう過去を持った人間もいるということを知ってほしいです。

そして、私も似たようなしんどさがある、話してみたいと思ってくれる方がいたら、ぜひDMをください。

一緒に悩んで、一緒に考えます
私があなたと話す時は、
真ん中にまずあなたの気持ちをどんと置きます。

相談してるといつの間にか、「お父さんも大変なんだよー」とか、「もっとしんどい人もいるんだからさ」とか言われることも少なくないです。
そんなこと分かってるのに!!!!!

だからこそ私は、まずあなたと向き合って、それから同じ方向を向いていきたいと思っています。
環境を変える力は私にはないけれど、少しでも心が緩まるお手伝いが出来ればと思っています。

(相談に限らず質問でも感想でもお待ちしております。)

それでは長文になりますが、お付き合い下さい。

  • 時系列がぐちゃぐちゃだったり、書ききれていない出来事もあります。私目線で辛かったことについて書いているのでこれがすべてではありません。

自分史

家族構成

母、父、私、妹、弟(年齢順)

小学生時代

小学生時代は勉強が楽しくて、成績を褒められるから自分に自信もあって、クラスの中心に立ちたがるタイプの生徒でした。
当時はロケットを飛ばす管制官になりたくて、私立中学を受験しました。
受験勉強を始めたのは遅くて、塾に入ったのが小6の6月。そこから猛勉強して、隣の県の中学(西南学院中学)に進学することになりました。

小学校の卒業式が終わったあと、私は離れ離れになる友達になんと言おうか考えていました。

そんな時、私を見つけて父が言った言葉は、
「腹減ったけん帰るぞ」

フキゲンな父をこれ以上怒らせるのは怖くて、結局誰とも話せずに帰宅しました。
あまり覚えてないけれど、塾の合宿の帰りとかも父に会うのが辛くて号泣した事があって、小学生時代から私の中で「家族」というものがしんどい存在になりつつあったのだと今になって思います。

卒業式の後、お布団の中で沢山泣きました。
この時からずっと使っているピンクのお下がりの布団だけは私の涙も知っていてくれて、とても好きです。

中高時代

中1の時、初めて県外に通うようになり、今までの友達とは全然違う環境で育ってきた人たちと触れあうようになりました。
実は私は補欠合格だったので、小学生時代と違い周りの子達の方が頭がいい、自分が勉強についていけないという事態になりました。
少し伸びすぎた鼻がそこで折れ、中高生のうちに多様な価値観に触れたことで救われた部分も大いにあったと感じます。

中2,3くらいから、毎晩夫婦喧嘩の仲裁をする期間がありました。

酒で荒れる父と、夜中まで付き合う母。
布団で耳を塞いでも母のことを罵る声が聞こえると、堪えきれず食卓へ向かいます。

机の上には焼酎の瓶と大量のビールの空き缶。
プロレス観ながら机をバンバン叩いたり、なんか大声で叫んでたり。
酷い時は母に向かってイスを投げたり、炊飯ジャーにセットされていたお米を全部捨てたりしていました。
…多分なんも覚えてないんだろうなあ、笑

ある日、いつものように仲裁に入ると父から

お前はいつも母を庇う、
俺のことは好きじゃないっちゃろ

って言われました。

はあ、??誰のためになんのために頑張って耐えてると思ってるの、と堪えきれなくなって、
小学生の頃、昔私をいじめた子がいなくなればいいのにと漏らした時、父からお前がしねば?って言われた時の話をしました。

それを聞いて父は逆上し、「俺は絶対に言ってない、しぬってどういうことかわかるか?!」と言いながら私に包丁を向けました

結局、間に母が割って入って、包丁をシンクに投げ飛ばしてくれたおかげでその場は落ち着きました。

その後私はこっそりシンクの中の包丁を拾って自分の洋服棚の奥に入れ、たまに見ては泣いていました。

母と私


アルコール依存症の自助グループを調べようとしたこともありました。結局母にバレて、体裁を気にする母からは余計なことはするなと怒られました。(それも父にバレて自分はアルコール依存症ではない、という話を何度かされました)

中3になって父は単身赴任することになり、家も少しは落ち着いたように思えました。

それもつかの間、次に家のヒエラルキートップに立ったのは母。

なんでか忘れたけど頭にゲンコツが飛んできて

頭を撫でられた回数の方が多いはずなのに
まだゲンコツの感触のほうが残っています。

母からは泣きながらごめんねと言われたり、あんたしか頼れる人がいないのと言われました。

母のことは好きです。私も母も自己犠牲が強すぎるのが似てると感じています。

弟はまだ小さいし、妹は不登校。
都会の進学校へ通う長女の私は、私がどうにかしなきゃという気持ちでいっぱいでした。

気持ちと自傷

これだけ色々書いたけど、父や家族のことを見捨てる選択肢はありませんでした。学生だし。

父や母の生きてきた背景を知っているから、それぞれに苦しみがあることも少しはわかっているつもりでした。

だから、誰も悪くない

誰も悪くないのに、なんでみんな苦しんでる?

私の努力が足りないから、??

私がいるから?

誰も悪くないのなら私のせい。
わたしがしねば、みんなはもっと幸せになれるかもしれないと本気で考えました。

月謝の高い習い事もして私立中高一貫に通わせて貰っていて経済的には恵まれた家庭でした。
それはちゃんと私もわかっていました。

だからその分、しんどいと思ってはいけない
私は恵まれているんだって言い聞かせて。

それでも苦しいことに変わりなくて。

リスカすることで傷が目に見える安心感、
私はちゃんと傷ついているんだとわかるために、苦しい気持ちを自分で否定しないために
私は腕にカミソリを当てました。

思い出の(?)大学受験

高校三年生、大学受験の時期になりました。
中高時代熱中して取り組んでいた朗読も上手くいかない状態が続いて、家のことも抱え込んだままで身体の不調が悪化していました。

結局、一校だけセンター利用で受験することにしましたが、センターの前か後か、動けなくて20日間くらい学校を休みました。
寝込んでいたら頭の上から

「6年間の努力が水の泡。お前がそんなだから妹も弟もあんなんになるんだ」

と母の怒鳴り声が聞こえてきました。
中学受験の時も中高の間もほぼ毎日駅まで送ってくれてお弁当を持たせてくれた母の、きっと素直な言葉でした。

センター試験当日、会場が自宅から遠かったので近くのホテルに泊まることになりました。
父と、2人で。

酔った父と2人同じ部屋にいて、眠れるわけないですよね。徹夜して試験を受けました。

ホテルに戻り自己採点すると、A判定でした。
父は「俺のおかげや」と嬉しそうでした。

「しにたい」がどんどん積もっていく日々です。

ちなみに、私が社会福祉を学びたいと思ったのは父の影響で、アルコール依存症について治療や自助グループなどのことを勉強したいと思ったのがきっかけでした。

大学入学と退学

大学に入学し、一人暮らしを始めました。

1番コロナが流行った時期でした。
ほとんどオンライン授業で、家かバイトかの生活でした。バイトは3つかけ持ちしていました。

家族から離れてみて、家事をしてもらっていたありがたさとともに

私がいなくても、家族はやっていけるんだなあ

という思いがぼんやりと浮かびました。

勉強していくにつれ、社会福祉士より発言力がある医師になって福祉の仕事に携わりたいと思うようになったことと、大学の友達とあまり合わなかったこと、そして体調が悪くなっていた(同じ道を歩くのに時間が2倍かかったり、人が怖くてイヤホンで爆音で音楽を流してフードをかぶり、刺されるんじゃないかと冷や汗を流しながら買い物に行っていました)から、大学一年の終わりに退学します。

宅浪とニートとフリーター

実家に帰り宅浪しました。
が、3か月もしないうちに勉強できなくなりました。参考書の文字が二重に見えて読めない、布団の中から動けない。

手帳には大丈夫、大丈夫と自分を励ます言葉を書きなぐって出来たことに目を向けようと努力しました。

母や妹からは、お前そんなんで受かると思ってんの?今日は何時間勉強したの?お前なんか受かるわけないじゃん、とばかり言われました。すれ違う度に、顔を見る度に、何度も言われました。

手が届くところに水と、チョコと、カルパスと、カミソリを置いて生活しました。ひたすらスマホに愚痴を書いて、腕を切って、疲れて寝る、の繰り返し。

これじゃ本当にお先真っ暗だと思い、母に頼んで精神科を受診すると、双極性障害二型と診断されました。

2ヶ月くらい?全く何もしないで過ごし、やっと布団から出られるようになって、11月下旬からコンビニでバイトするようになりました。(ここらへん端折りすぎですね、あんまり記憶がないんです)

再入学から今

それからやく3ヶ月そこで働いて、やっぱり福祉に携わりたいと思い以前通っていた大学に再入学しました。

今は妹と二人暮しをしていますが、妹の事もまた現在進行形で悩みのひとつです。妹とのことは改めて別の投稿に書こうと思います。

病み垢と私

ここまで書いたきた経験を耐えられたのは、病み垢という居場所があったからでした。
学校のカウンセリング室とかと違って、その瞬間に思いを吐き出すことが出来る。
その時に、似た経験をしてきた人に話を聞いてもらうことが出来ました

中学校の帰り道=家に向かう道を歩く時にはトラックドライバーのお兄ちゃんとほぼ毎日電話して、夜中夫婦喧嘩が聞こえるまで獣医のお兄ちゃんと電話して、父に押し倒されて暴言を吐かれた時にはピアノが得意なお姉ちゃんに泣きながら話を聞いてもらいました。

傍からみたら中学生と大人のやり取りで危ないと思われるかもしれませんが、私はそうやって自分を保ってきました。死ななくていいよと言われ続けて生きることができました。

その人たちに支えられたから今の私がいます。

だから私は

私は今、特に家族関係の悩みを抱えて病み垢を利用する人たちを対象に、話を聞いたり必要であれば支援とつなげる仕事をしたいと考えています。

それは、これまでしんどかった時1番の選択肢が「病み垢」だったから

もちろん子どもを利用しようとする悪い大人もたくさんいます。それの餌食になってほしくないから、その対策も考えていきます。

「病んでるって認められるためにリスカしなき
や」
「リスカ頑張れない私は生きる意味がない?」
「いっそ病名つけばもっと大切にしてもらえるのかな」
「自分には居場所がない」


こんな声をもう何年も目にしてきました。でももう聞きたくない。言わせたくない。

「私なんかをなくしたい」
これが、私の軸です。

ここだけでも読んで

たとえば私の家族は精神疾患の診断を受けてはいません。
経済的に困窮しているわけでもありません。
恵まれてるねって馬鹿みたいな回数言われてきたし実際恵まれている面もあります。

それでも私は苦しかった。死んで終わらせたいと思うくらいには苦しかった。

あなたよりお金がない家庭もあるかもしれない、もっと困ってる家庭と呼べる人達がいるかもしれない。

でも、だからなに?

あなたが苦しいことにかわりはないですよね。
今、苦しいと感じている自分まで否定しないでください。

これ以上、自分を殺そうとしないでほしい。
そうしなきゃ生きてられなかったのかもしれない。なら、そうしなくても生きていけるように、私がサポートします。したいんです。

この活動に、あなたが置かれた環境を直接変える力はないと自覚しています。
でも、1人でも安心して話せる人がいたらもう少し楽に生きられるかもしれない。"今"を耐え抜いたら穏やかな未来が待っているかもしれない。
その「今」を共に過ごす仲間になりたいのです。

もちろん課題は山積み、問題だらけ。むしろ問題しか見えない時の方が多いです。ぶっちゃけ向き合うのつらい。
でも、きっとこの活動が届く人がいると信じているから、いっこいっこ向き合って、似たように生きづらさを抱えるひとと繋がっていきます。

常に仲間募集中です!

この活動について、一緒に考えてくれる方を募集しています。自分にできることは少ないのではないかと思っていても全然大丈夫です…!是非気軽にご連絡ください!
よろしくお願いいたします。

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