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「正解」という呪いからの解放_fin

こんばんは。
9,000人と只々お話してきた36歳、meexおじさんです。

今回は、前々回・前回から引き続き、
「正解」という呪いについて書きます。
こちらのnoteは完結編ということで、呪いからいかにして解き放たれるかについて書いていきますので、呪いの正体についてはおどろおどろしいサムネの前々回・前回のnoteをご覧ください。


呪いの螺旋から自らを解き放つ


正解。
この甘美な言葉が、実は私たちを苦しめている。
知らぬ間に、私たちを誰かの管理下に置いている。

そんな話を前回まではしてきました。

そして、私たちが憧れるあの人が輝きを放つのは、
この正解の呪いから、完全に、あるいは一部分において解き放たれたからではないかと私は感じています。

現代の野球界において、世間が無理だと騒いだ二刀流を貫き、
ドジャースとの10年に渡る長期契約を結んだ大谷翔平選手。
彼の二刀流へのこだわりは、当時「正解」ではなかったはずです。
選手生命を縮める、メジャーを舐めるな、そんな様々な声は当然彼の耳にも入ったはずですし、彼自身ほんの少し一理あるなとは思ったでしょう。
しかし、彼は貫きました。貫いたことで、今の彼がいることは明白です。

あなたの周りで輝きを放つ誰かを想像してみてください、
その人もまた、誰かの「正解」を追い求めるような人間ではないはずです。だからあなたはその人に憧れるのです。「自由」とその自由から生じる「責任」を一身に背負いながらも人生を楽しんでいるその姿をまぶしく感じるからです。

「我が道をいく」という言葉がありますが、それは簡単な道程ではありません。まず、その為には我が道を知らねばなりません。そして我が道を知るには、自らの意志は持ちながらも、人の話には耳を傾けねばなりません。耳は傾けながらも、それは道そのものではなく道を作る為の材料の一つだとすることが必要です。

少し脱線しますが、9,000人とお話する中で私は人間というものに非常に強い興味を覚えるようになりました。そしてそれは著名人についても同様です。その中で最近、ホリエモンこと堀江貴文さんという人間の絶妙なバランス感覚に強い興味を抱いています。彼は強い自論の持ち主です。それは皆さんも知るところでしょう。「X(旧ツイッター)には、字が読めるだけで本質的には意味が理解できないバカがうようよしている」と話す堀江さんですが、反面、ご自身が嫌いな、そういった類のポストにも目を通す繊細なアンテナが透けて見えます。自論は述べますが、自分の知らないことに対しては少年のように目を輝かせながら話を聴きます。
彼のスタンスに絶妙なバランス感覚を感じるのは、そういう理由です。自分に自信はある、自論もある。でも、その自論を磨くために新たな意見や反対意見には耳を傾けてみる。※このあと、「取るに足らない意見だと思った場合にはどんな相手だろうと反論する」がもれなくついてくるので、その部分の鋭利さで私たちは彼から学ぶべき部分を見失うのですが。(笑)

私は、彼という人間も、誰かのいう「正解」を追わない人間だと感じるので上記のようなスタンスは少なからず見習うべきと感じています。

脱線はここまでとして、私も含めた「正解」という呪いを強烈に刻み込まれた人間は、どのようにしてこの呪いから解き放たれるべきなのでしょうか。

「正解」に直面したら「不正解」もチラ見する


これは、「正解」から解き放たれる最も初歩的な方法です。この方法だけで皆さんが正解から完全に解脱することはありませんが、まずはこの方法をとることで世の中的には「正解」とされていない無数の選択肢の存在を知ることに繋がります。

そして、それを知ると、その「不正解」を選択する人間を知りたくなります。世間ではそれは不正解だとされているので、そういう人間たちは皆さんにとって変わった人間、もしくは自らと異なる人間でしょう。そういう存在には興味が湧いてきてもっと知りたくなるはずです。

逆にひどく嫌悪感を覚える場合もあると思います。それは大概の場合、自分と異なるからこそ感じる嫌悪感であると言えます。
「せっかく」東大に入ったのに中退して起業の道を歩む人、
「せっかく」東京藝大に入ったのに、卒業せずにミュージシャンになる人、「せっかく」一流企業に入ったのに、脱サラしてラーメン屋を始める人

「せっかく」という言葉こそ、世の中の「正解」の正体です。
この「正解」から外れた道をとって活躍する人たちが表れると、自分たちが信じてきた正解が間違っていたかのような感覚に陥り、全てを「嫌悪」とまで言うと強すぎますが、類する感情を抱くに至ります。

しかし、その感情を味わいながら、その人間たちのことを深く知ろうとしてみてください。私たちは、人生において無数の「正解」に縛られていますから、それに突き当たった時には常に「不正解」に目を向け、それを選択した人間たちのことを知ってみる。

これを繰り返すと、私たちはとあることに気付きます。


「好き」「楽しい」を丁寧に感じること


「不正解」を選択した人間たちは、当然こたえのない茨の道を選んでいるわけですから辛いことはつきもの。でもなぜか、彼らは「楽しそう」なのです。※これは私たち「正解の民」にとって実は辛いことなのですが。

自分達は正解を選んできたはずなのに、彼らは自分達より幾分、楽しそうなのです、人生を楽しんでいそうなのです。

ここで断言します。彼らの人生が私たちの人生より楽しいわけではありません。彼らが私たちよりも総合的に能力のある人間だからでも、秀でた人間だからでもありません。

彼らは自分の「好き」や「楽しい」を知っているのです。

だからこそ、彼らは辛いことに取り組んでいるはずなのに、楽しそうな人生を送っているように見え、私たちから見ると時に目を覆いたくなるほど、キラキラ輝いて見えるのです。

もうお分かりですね。
私たちが、世の中にある無数の「不正解」の選択肢に目を向けられるようになったなら、その後にやることはただ一つ。

自分の「好き」や「楽しい」を丁寧に感じることです。

元々、「正解」をこれほどまでに私たちが刻み込まれるようになった理由の一つには、明治初期につくられた日本の教育制度の骨格があると考えています。当時欧米列強と呼ばれていた異国の民から国土を守るため、富国強兵を推し進めねばならないと考えた日本には、外国と戦える強い軍隊を作る必要がありました。強い軍隊には規律が不可欠であり、軍隊の一員となるのは国民です。そういった国民を育てる仕組みがまさに「教育」です。

多様性とか言ってる場合じゃない、上官の命令には必ず従い、国を守ることは絶対である。現代風に言うと「理不尽」な様々なことを受け入れる「器」をつくるという役割を「教育」が正に果たしたのです。

学習する教科は限定され、試験が課され、当然高い点数の方がよい。体育では素早く隊列を変更し、一糸乱れぬ集団行動を徹底される。
そこでは、個人それぞれが何が「好き」か「楽しい」か等、関係ありませんし、むしろそこに個性など出されては困るのです。

それが現代においても、日本人という民族の強みを作り出しているのは明らかです。海外の人たちから、「順番を守る」「規則を守る」「協力し合う」国民性が賞賛されたり、実際に震災があった時などはとんでもないスピードで復興作業が進んだり、ビジネスの世界でも「右向け右」をこんなに高い精度でこなせる日本人だったからこそ、戦後日本は急速な発展を遂げてきたという側面もあるでしょう。

「正解」という呪いは、実は私たち日本国民のアイデンティティだったとも言えるかもしれません。

だからこそ、私たちは自分たちの「好き」や「楽しい」という一番の個性を感じ取ることが苦手なのかもしれません。でも、同じ日本人の中にも、実際に自分の「好き」や「楽しい」に気付き、いちはやく「不正解」を選び、自らの人生を精一杯楽しむ人たちがいます。彼らに出来て、自分たちに出来ない理由は最早ありません。

これだけ深く「正解」を探す呪いを刻み込まれた私たちが、ほんの少しでも自らの「好き」や「楽しい」を感じることが出来るようになり、その素養を体得したのなら。

私は、日本という国に蔓延る閉塞感すら打ち破ることが出来るのではないかとすら感じています。

だから。

1.無数の「不正解」に目を向ける

2.自らの「好き」や「楽しい」に目を向ける


この2つを、まず普段の生活から実践してみてください。

※「好き」については以前のnoteで記していますので、
 是非参考になさってください。

私も皆さんとともに、自分の「好き」や「楽しい」に向き合いながら、これからも生きていこうと思います。

あ、このnoteへの執筆も「楽しくて」「好き」です。
また次のnoteでお会いしましょう。


m_oji
















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