見出し画像

ぼくはもっぱら音楽を自己探求の具として聴いてきた

音楽談義を楽しむための心得など

 好きな音楽について誰かと語りたいという気持ちは、多くの人が持つものだろうし、それについて語り合う場も少なくない。特にネットが普及してから爆発的に増えたように思う。
 同好の士と音楽を語り合うのはなにより楽しいし、自分の音楽の感じ方、聴き方が広がるし、そういう体験をとおして、音楽のみならず物事の見方が変わる、広がる、複眼的思考が身につく。滅多にないが、食べ物の好みが変わることもある。チーズ嫌いだったのに勧められてロッシーニのオペラを聴き始めてからパスタにパルメザンチーズを山ほどかけるようになったとか。また、自分の感じ方を受け入れてもらえたり、共感してもらったりすると、それはもう単純に嬉しくなるし、なにより孤独から解放された直後にしばしば感じる、あの独特の安らぎを覚える。いいことずくめだ。
 ぼく自身もそういう経験を重ねてきた。ひとりで音楽を聴くのも楽しい。そして、それについて気心の知れた仲間と語り合うのは、ひとりで音楽を聴いて覚えた愉悦と同じくらいの豊かさをもたらしてくれる。
 孤独は素晴らしいが、その孤独があればこそ、語り合う喜びは倍増する。世界はかくのごとく新鮮で豊穣で驚きにあふれている。
 だから仲間と語る場はあったほうがよいと思う。そう、できれば実際に会って。——webカメラを使って談論風発する手もあるけれど、カメラの向こうの人物が本当の人間かどうか、疑わしく思われてくることもある。相手が未知の人であればなおさら。かくいう僕も疑われたひとりだ。
 音楽を聴くときは、たとえ百人の仲間と小ホールの座席を埋めていたとしても、それを全身で受け止めているかぎりは、どうせ逃れようもなくひとりぼっちである。
 一心に耳を傾ける者を容赦なく孤独宇宙に放り出すのが音楽の恐ろしい力ではないか。その暴威に晒された者は少数の幸せ者をもって自任するとよい。その者は家族も仲間も近所づきあいもなく、有り余る金だけを頼りにひっそりと、ひとり誰にも迷惑をかけずに生きるの同じくらい、深い孤独のなかにいるのだ。逆に言うと、それくらいの決意と没入がなければ、音楽を全身で聴くという行為は成り立たない。
 安心してほしい。音楽は必ず終わる。人に死があるのと同じように。音楽が鳴りやめば、ぼくたちはふたたび出会う。そして膝を交えてとことん語り尽くす。これも一種の音楽かもしれない。死を迎えて終わる音楽。

 語り合う場を求めて、ぼくたちはのこのこ出かける。コンサートの帰りに、ちょいと連れだって一杯引っかける。
 音楽に没入したあとは、仲間と語り合う。こよなく楽しいひととき。ただし、音楽の没入とちがって、こちらはひとりではない。テーブルを囲む仲間がいる。いきなりウイスキーをぐいぐい呷ってはならない。傍らに人なきがごとき振る舞いは、当然慎まなければならない。
 没入度合いが深ければ深いほど、仲間がテーブルを囲む現実に戻るのに、タイムラグが発生してしまうのは致し方のないことかもしれない。少しばかり、傍らに人なきがごとき振る舞いをされても、ここは一笑してやり過ごすのが粋な態度というものだよ、と昔、ある先輩が教えてくれた。酔うとその先輩はぼくが見えなくなるらしかった。だからぼくの卸したてのスーツにトマトケチャップを飛ばしてくれても、一笑するしかなかった。まさに傍らに人なきがごとき振る舞いだった。
 没入した自分の世界から戻るのに要する時間、タイムラグは個人差があって、人によってまちまちだ。ぼくのこれまで出会った友人のうち、最短は二分五十秒。恍惚状態の彼女の顔の前でパンと手を鳴らしたら、醒めた。最長は二年六か月である。とろんとした彼の顔の前でパンと手を鳴らしたら、怒ってそのまま出て行ってしまった。あれから二年六か月経って、現在も記録更新中である。元気だろうか。
 せっかくの楽しい場である。互いに愉快に、気持ちよく過ごしたいものではないか。きっとみんなそう思っている。それなのに、誰が悪いわけではない、不作法があったわけでもないのに、なんとなく剣呑な雰囲気になってしまうことがある。その場では気づかないのだけど、帰宅して、電気を消して布団に潜り込むと、アルコールでどんよりした頭に原因が浮かんでくる、テーブルの下に死体のあるような雰囲気になってしまった原因が。

 そう、これはぼく自身の経験談だ。あまり参考にならないかもしれないから、少しおもしろおかしく語って、せめてもの慰めとしたい。
 音楽の好みは千差万別であり、人の顔と同じくらい多様である。自分と音楽の好みがぴったり一致する人は、基本的にいないものと思ってよろしい。自分とまったく同じ顔の人と出会ったら、これはドッペルゲンガーだ。晩年の芥川龍之介はこれにひどく怯えたらしい。これを題材にした作品がいくつかあって、いずれも神経症的である。
 百歩譲って同じ顔の人がいたとして、その人と音楽を語り合って楽しいだろうか。同じ顔の人間ばかり集めて懇談会をするだろうか。顔の違う、それぞれ異なる人どうしが語り合うからこそおもしろい。ましてや大好きな音楽を話題にするのだから、他人の感じ方にそれぞれおのれと似たところ、異なるところを見て、うんうんなるほどね、と唸ったり、自分の感じ方に共感を示してもらったりして、だよね、と言いながら頷き合ったり、時にはハグしたりするのが最高に、もう掛け値なしに楽しいではないか。こういう状況になってくると、「孤独もまた良きかな」などという賢者の言葉がやせ我慢に聞こえてくるから不思議である。
 だからそういう楽しい、かぎられた人生における無条件の喜びの場を台無しにするような振る舞いは御法度である。それは当然として、では具体的にどういう振る舞いがこれに該当するのか。じつはこれが意外と漠然として、また人によって違いがあるようだ。
 そこでぼく自身の経験に基づいて、仲間と音楽を語るときの無粋な振る舞い、雰囲気を壊しかねない行為を挙げてみたい。悪気は全然ないのに冷や水をかけてしまうことがある。何が冷や水をかけさせたのか。前述したように、これは人によって幅があるだろうから、そのあたりはあらかじめご承知願いたい。

御法度その1)嫌い、とか、好きじゃない、などの拒否の言辞を多用する

 まずはこれ。深く考えずに言ってしまって後悔するワードのランキングがあれば、「嫌い」「好きじゃない」は上位に入るのではないか。ぼくも覚えがある、というか、ありすぎる。逆に、きっぱり「嫌い」と言って難を逃れた経験もある。子供の頃、学校の先生に「ニンジン食べなさい」と押しつけられた時だ。次の瞬間、輪切りのニンジンと皿の破片が床に散らばった。僕は廊下に立たされ、退屈な授業を受けずに済んだ。しかしこんなのは例外中の例外だ。
 人が好きな音楽について熱心に語っている。それをひとしきり聞いてから、「いや、おれは好きじゃない」「そんなのが好きとは、あなた、全然わかってませんね」などと言う人は、あとでたまらなく自己嫌悪に陥るだろうから、気の毒である。自己嫌悪に陥らなければ、これはこれでやっぱりお気の毒様である。理由は言わずもがな。

御法度その2)とうとうと音楽論を一席ぶってるつもりで実はおのれの好き嫌いを述べるに終始する

 やってしまう。音楽をこよなく愛する者なら、誰でも一度や二度、あるいは三度四度五度、やってしまった経験があるのではないか。ぼくも覚えがあって、若気の至り慚愧の至りってやつである。
 居酒屋で女の人と音楽の話をしようものなら、十中八九、このパターン。上手にあくびをかみ殺してくれたりするから、こっちは彼女が退屈してるなんて夢にも思わない。
 おお、でもこれすべて、ぼくの二十代前半のお話。黒歴史とまでは思わないけど、まああんまり回想したくない日々である。今だったらバーのカウンターで隣り合わせた女の人とふとしたはずみから音楽の話をすることになっても(そんなことあるか)、会話全体の7割は聞き役に回る自信がある。知らざあ言って聞かせるが、女7:男3は、チョイ悪おやじが若い女性とふたりっきりで話をするときの黄金比である。この黄金比を用いてバルトークは「二台のピアノと打楽器のためのソナタ」をはじめ、数々の傑作を書いた。チョイ悪おやじもカウンターをバンバン叩きながら彼女と二台のピアノになるのである。
 ともあれ、ぼくはもう鹿爪らしい顔をして音楽を語って、自分の好き嫌いに客観的な根拠らしきものを与えようと思わない。ただの主観の問題に過ぎないことにたいして、誰かの承認を得ようとは思わない。そんなのは本当につまらないものよ、と、こう断言したい。
 ところが、この一種の病、六十代以降に再発する可能性が極めて高いようだ。最近なぜかよく遭遇してしまう。青春を取り戻すかのごとき勢いで自分の好き嫌いを語って飽きず、周囲に途方もない忍耐を強いる。それでもおもしろい話がちょいちょい混じることもあるから、油断ならないけれども。しかし総じて興醒めになるものと心得て間違いないから、もって自戒したい。バルトークだって晩年の作品では黄金比にこだわっていない。青春の再現はこりごりだ。

御法度その3)人の話を聞いていない、突然放心する

 個人的には笑って許す。でも、世の中には結構これが許せないという人も少なくないようだ。「そんなに許せませんかね」と問うと、「許せませんよ、絶対許せません。死刑です」と答える(おいおい)。ぼくも会話の最中に突然電池が切れたような感覚に襲われることがある。そうなると人の話が耳に入ってこない。話している人の口の動きとか鼻をぼんやり見ているだけである。最近の車はバッテリーの寿命が近づいても、その兆候をなかなか見せない。昭和の時代であれば、エンジンをかけてライトが明るくなったら、「お、バッテリーが弱まってきたぞ」と気づいたものだけど、今は最後の最後まで最高のヴォルテージで仕事をしてくれる。ぼくの中の電池もまさにそれだ。熱心に耳を傾け、うんうん、それで、と続きを促した途端、なぜか突然、なんの予告もなく、電池切れになる。
 まことにおのれの不覚を詫びるよりほかない失態であって、電池の切れたぼくはその後、彼女にホテルまで運んでもらったのだけど、こうならないためには事前に対策を講じておかなくてはならない。
 ぼくの対策は、適当にして切り上げる、これである。心置きなく語れる音楽談義は、すばらしく楽しい。しかしだからこそ、だらだら続けてはならないのである。電池切れとはすなわちこれ、体力の消耗を指す。疲れる前に、「楽しかったね。じゃまた」と片手をさっと上げて、振り返らずに退場すること。

結局、ひとりになって自己探求するのだ

 楽しく語らった後は、ひとりになる。なんのためにひとりになったのか。それは真剣に音楽を聴くためである。
 音楽に関わる行為を大別すると、次の二つに分かれる。演奏と聴取である。作曲もあるではないかと思うかもしれないが、この作曲という行為が独立したものとして考えられてしまうのは、クラシック音楽特有の現象と言ってよい。作曲家が自分で演奏することを想定して作品を書いたのなら、これは演奏に当てはまるし、他人が演奏することを想定して書いたのであれば、その作曲という行為は聴取になる。後者はクラシック音楽の歴史が生んだ鬼子である。
 つまり聴取というのは、一般に漠然と考えられているよりは、遥かに創造的な行為なのだ。聴取は鑑賞の言い換えではない。聴いて、取る、と書く字からも分かるように、何かを受け取る、聴き取る、盗み取る極めて主体的、かつ能動的な行為である。ここでは聴き手の技量が大きくものをいう。
 ただ単に音楽を聴く行為を否定するものでは、もちろんない。そのような受け身の姿勢で音楽を楽しむこともあるし、音楽はそういう喜びもまた許してくれる。それもまたかけがえのないもの。でも、けっしてそれだけではないのだ。
 聴取とはまた自己探求でもある。自己という幻想の存在に賭ける行為でもある。自己というひとつの妖怪を、それは幻想にすぎないと得心したうえで、とことん付き合う。その付き合いの道具としては、一般に言葉がよく利用される。
 ほとんどの思考は言葉でするから、それは当然だけれども、しかし言葉だけに頼って人は思考するのではない。視覚的に思考することもある。ビジュアルで概念を理解する。物事を把握することもあるし、人によってはそれがデフォルトになっている。近年注目されている思考法だ。
 それに比べると、音楽的思考というのは、まだまだ馴染みが薄いように思われる。この言葉は、専門の音楽家による、音の扱いについての特有の考え方、思考法という意味で使われることが多い。音楽に深く集中し、そこから一本の糸のようなものを導き出していく思考は、音楽家だけが身につけているものではない。音楽を聴取する者にも親しい思考である。
 音楽的思考は、ビジュアル的な思考と比べると、そこから読み取るものが遥かに恣意的である。聴取する者が十人いれば、十人の受け取り方があるだろう。
 バッハのヨハネ受難曲を聴く。言葉ではそれしか言えない。聴くことで生まれる思考をここに記すことはできないし、そんなのは無意味だろう。言葉として定着したと思った途端、それはするりと逃げていく。捉えどころのない、透明な天使のようだ。まずは集中して聴いてください、としか言えないのがもどかしい。
 ぼくは音楽を聴き、聴取をとおして自分と向き合ってきた。その意味で音楽は自己探求の具である。いろいろつらいこともあったし、人前でワンワン泣いてしまったこともある。いわれのない中傷を受け、激しい非難にさらさられ、孤立し、誰からも話しかけてもらえない日々を過ごしたこともある。でも、音楽はいつだってぼくに寄り添ってくれた。
 ひとりになって音楽を聴く。それは慰めでもなく、もちろん癒しなどでもない。集中し、世界と戦うためである。世界と対峙するために、ぼくは音楽を聴く。たとえ耳が聞こえなくなっても。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?