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「想い出ノート ~ 5人の高校生☆汗と笑顔の青春記」(前編)

 高校2年のとき、誰でも参加出来て自由に書けるノートを作ったことがある。

 現在ではインターネットも普及し、公開BBSも多数存在するが、言わばそのアナログ版。
 ネットとは違い、手渡し可能な範囲内の繋がりなので、書き込むメンバーは、同じ高校の同期生かその兄弟姉妹ぐらいが限界だった。互いの素性がわかっている気楽さから、遠慮がなさ過ぎて衝突することも珍しくなかったが、紙の上で戦わす若い論理戦は、面と向かっての口論に比べると、どこかほのぼのとしていて楽しめた。

 主な参加者は、りまた、秋山水(しゅうさんすい)、殺人芸術家、著者、そしてトライトンの5人。
 その他、たまに参加したのが、無我、よっこ、無名氏、クプクプ、Bamboo、その他数人。まずは、主要5人について簡単紹介にしてみようと思う。

 まずはリマタから。
 おっとりとして人当たりが良く、偶然出会うと、目を細め唇の端っこで遠慮がちに微笑んだ。
 油絵を描くのが趣味で、アングル作の『泉』をこよなく愛し、ノートにも、よくイラストを描いていた。決して流麗な線ではなかったが、そこに描かれた人物は、不思議な孤独感を漂わせ、風変わりな童話の一場面でも見ているかのような独特の魅力があった。
 ミステリー小説を好み、「魑魅魍魎」という四文字熟語を偏愛していた。ノートに書き込まれた文章での用法は完全に常軌を逸していて、「なんて素敵で、魑魅魍魎で、心が躍るようなことでしょう!」なんていう調子だった。
 また、彼は、ちょっと不思議な能力を備えていた。指先で文字を読むことができたのだ。彼の視界に入らないところで紙に文字を書き、2つ折りにして渡すと、それを腰の後ろに回し、そのままの状態で、その文字を答えた。それがマジックだったのか超能力だったのか分からないが、どう見てもタネがあるとは思えなかった。
 リマタに関する記憶で、もうひとつ印象的な場面は、剣道のクラスマッチでの戦いぶりだ。竹刀を上段に振りかざし「えーい!」と気合いの入った声を出し、伸び上がって踏み込んだかと思うと、対戦相手の頭部に、スコーンと鮮やかに決めていたのだが、その時、相手が全く無防備なのが不思議だった。
 剣道部の部員に、彼の強さについて問いかけてみたことがあるが「いやいや全然ダメ」と否定的な反応だった。今思うに、あれは剣道の技と言うより、相手の心理的な隙を突くのが巧みだったのではないかと思われる。その後のエピソードを振り返ってみても、そう思える節がある。

 秋山水。
 彼は、武道家を自認していた。柔道の腕にはいくらか自信もあるようで、ノートへの書き込みの中に「男として」という言葉が、頻繁に見られた。
 彼に関して、真っ先に思い出すのは、体育の授業でのある一場面だ。
 武道の時間、柔道の先生が彼に興味を示し、皆が見ている前で対戦したことがあった。
 秋山水のほうが優勢で、彼に組み伏せられたときに先生は思わずうなった。

 「こりゃあ、強いわい!」
 
   柔道のクラスマッチで、上級生を締め落とし、恨みを買って付け狙われたり、ある朝登校してきた彼の顔に、絆創膏が貼られていて、「それ、どうしたの?」と訊くと、返事もなく不機嫌そうにむくれていたこともあった。どうも皆の知らないところで、皆が知り得ない活躍をしていたようなのだが、そのあたりについての詳細は、彼の口から語られることがなかったため、よく分からない。何かと、武勇伝的な噂の多かった男である。

 彼の部屋を訪ねると、そこには、どういうわけだかサバイバル・ナイフや非常食、固形燃料がいつも置いてあった。突然の災害に備えていたというわけでもなさそうなので、その品揃えを思い起こせば、アウトドア・ライフに興味を持っていたことは確かだ。知能指数150というのが自慢の秋山水は、それらの用具の使用法など、豊富な知識を得意げな表情でいろいろと披露してくれていたのだが、その当時、こちらがその方面に興味が薄かったため、いつも適当に聞き流していた。そのため、彼の思いのほどを、ほとんど理解することはなかった。
 そんな秋山水は、エアライフルにも凝っていた。リマタもそれに影響を受け、よく2人揃って射撃場に行っていた。従業員にコーチをしてもらったら上達したとか、余分に弾を貰って嬉しかったとか、よくノートに書き込んでいた。
 僕も、何度か射撃場に誘われたことがあったが、全く興味が持てず1度も行ったことはなかった。

 殺人芸術家。
 写真家志望。彼のハンドルネームは長かったので、省略して「殺芸」と呼ばれていた。彼とは、出身中学も同じで、3年の時同級だった。
 彼の家は、中学のそばにあったので、よく誘われて遊びに行ったものだ。好きなロックのレコードを持って行って一緒に聴いたり、そばの飲食店に行って焼きそばを食べたりといった思い出が残っている。

 そのころから、写真撮影に興味があることは知っていたが、それが昂じて、アルバイトをして貯めた金で自室の一角に暗室を設け、モノクローム写真を自分で現像しプリントしていた。
 カメラマンという言葉を嫌い、写真家という言葉にこだわり、そして「美」を「完璧な構成」と解釈し、いつもそれを追及していた。カメラを首から下げ、鹿児島市内外をあちこちと歩き回っていた。
 高校の文化祭でも自作を展示していたが、学校の中という閉じた空間を飛び出し、市役所の市民画廊を借りて個展を開いたこともあった。その当時、高校生が市民画廊の使用願いを出すことが珍しく、担当者がかなり驚いたらしい。そのことは、後年、彼のお母さんから聞いた。

 彼の特徴をいくつか挙げるとすれば、見た目の良さも特筆モノということになるだろう。実際、かつての級友と当時の彼の話になると、その容貌について及ぶこともある。その美少女のような風貌から、中学時代に通っていた塾で、一部の女生徒から、「彼女」というニックネームが付けられたとか、朝登校して靴箱を開けてみたら、そこにラブレターが入っていた、などというエピソードを数多く残している。
 高校時代の彼は、肩まで髪を伸ばし、黒ぶちの眼鏡をかけ、眼光鋭く凛とした雰囲気を漂わせていた。
 彼の家を訪ねると、書棚からいろいろな本を引っ張り出してきて、感想を求められることが良くあった。しかもそれが、ベトナム戦争の戦場で撮られた銃殺の瞬間の写真だったり、フランツ・カフカの哲学的な1文だったりして、簡単に答えられないようなものばかり。そんなときは、脳の中のいつもは決して使わないような部分を無理に使わなければならなかった。時間をかけてゆっくり言葉を捻り出すと、

 「なかなか鋭いな」

 などと言いながら満足気な表情が返ってきたものだ。今振り返ってみても、学校の中で流れている空気とはまるで異なる、場合によっては少しばかり緊張を強いられる一風変わった友人関係だった。

 そういったエピソードや、「殺人芸術家」というハンドルネームから感じられるように、絵に書いたような「芸術家気取り」の少年だったわけだが、美貌の彼にはそれが良く似合っていたし、それを十分自覚してもいた。
 他人からの視線を浴びることが多かってであろう彼は、常に「見られている」ことを意識している感じだった。今だから言えることだが、そんな彼と並んで歩くときは、いつも引け目を感じていたものだ。

 著者。
 5人の中で、唯一の女性メンバーである。ちょっと小柄で色白。美人という評判もあった。育ちの良さを感じさせる清楚な見た目で、論理的な喋り方を好む少し小生意気な一面を持つ女の子。だけど、挨拶するとき小首を傾げて微笑むなどという少女らしい自己演出もちゃんと心得ていた。
 言葉の最後にちょっとだけ相手を見据える癖があり、勝気な印象を与えていたが、それがまたちょっとチャーミングでもあった。

 我が家から歩いて1分という近所に住んでいたので、たまにロックのレコードなどを抱えて行き、お喋りに興じることもあった。彼女には1つ違いの妹がいて、たまにノートに書き込むこともあった。長身でスタイルの良い子だった。
 著者も、殺芸と同じように写真に興味を持っていたため、ノートが切っ掛けで仲良くなり、現像やプリントの技術を殺芸から教わったり、たまに2人で撮影に出かけたりもしていた。当時、写真に関しては、殺芸を対していたと思う。
 しかし、それ以前に、殺芸の美しい容貌が、まず最初に彼女の心を捉えたようだった。生意気とは言え、そこはやはり「年頃の女の子」。彼がノートに加わり始めた頃、他のクラスからやってきて彼女の机の上にノートを置いて去ったあと、輝く瞳で彼の印象を語っていたのを覚えている。

 最後にトライトン。
 これが、ノートの創始者でもあった僕だ。トライトンというのは、ギリシャ神話に出てくるポセイドンの息子。海の神であるが、そこから取ったというよりは、ロック・バンド、エマーソン、レイク&パーマーのバンド名の候補に挙がった没ネームから拾った。
 キーボードを弾きまくるのが好きな、まさに熱血ロック・キーボード小僧。市内のアマチュア・ミュージシャンの間では、当時少しは名の知れた存在だった。

 ノートに書かれた内容としては、「人工と自然」「芸術について」などを思い出す。少し時間をかけてまとまった文章を書き、そこにイラストなどが添えられたりするので、直接的な会話の遣り取りとは、また一味違ったコミュニケーションが楽しめ、ノートを通じての、他の級友たちとは一線を画する絆が築かれていた。

  ** ** **

 リマタと秋山水、そして僕の3人で、海に泳ぎに行ったことがあった 。

 2人ともアウトドアに関しては経験が豊富で、薩摩半島の海水浴場よりは、桜島の岩場を素潜りしたほうが遥かに楽しいという彼らの提案に従うことにした。潜るのであればシュノーケルと足ひれが必要だというので、その時、初めて買い揃えた。

 自転車で桜島桟橋へと向かい、そのままフェリーに乗り込み、桜島へと向かった。デッキに立ち、潮風を受けながら、船の前進が巻き起こす飛沫や、遠い波間で揺れる光、飛び交うカモメの姿などを楽しんでいると、雄大な姿を見せている台形の山が次第に間近に迫ってくる。
 約3キロの距離なので、わずか15分弱で対岸に到着する。鹿児島市と桜島というのは、それほど近いのだ。

 桜島に着いた後、自転車3台を連ね、西側に海の輝きを見ながら、南へと進んだ。
 そのとき、一体どの辺りで泳いだのか、今地図を見ながら記憶を辿っているのだが、地形から判断すると大正溶岩の中のどこかだったのだと思う。

 シュノーケルの使い方と耳抜きの方法を教わり、いざ潜ってみると、岩肌から海藻が伸び、その周辺で可愛らしい魚たちが遊んでいる姿が見えた。

 なるほど、これは素敵だと思った。

 手を伸ばすと届きそうなところを小さく綺麗な魚が泳いでいるのが見える。そのとき見たのがどんな名前の魚だったのか、30年以上前の記憶を頼りに、「錦江湾の魚」で検索してみたのだが、釣り人対象の食用魚ばかりがヒットし、謎は謎のままで、何も分からなかった。
 足ひれとシュノーケルの効果も初体験し、それまで砂浜でばかり泳いでいたのが、勿体なく思えた。

 楽しさにすっかり取り付かれ、くたくたになるまで泳ぎ、そして潜った。

 遊び疲れた後、桟橋付近の大衆食堂で食べたラーメンが美味かったのが、強烈な印象として残っているのだが、味そのものより、極度の空腹感が一気に満たされる幸福を、ひたすら胃袋で感じ取っていたのだと思う。

 帰りのフェリーで、近付いてくる薩摩半島を見ると、夕焼けの色が僅かに残る空の下で、鹿児島の街が輝いていた。

 ほの暗い空を背景に浮かび上がる街。

 そこで生まれ育ち、いつもそこで暮らしている3人にとっては、夕闇迫る大気に抱かれた遠景としての我が街など、いつも見れるものではない。
 疲れた体をベンチに沈めたまま、3人とも次第に口数少なくなり、やがて黙ったまま、夕闇迫る中で自分たちの帰りを待ち受けている街の輝きに見入っていた。

 街は優しく待ち受けているように思えた。

 だが、それは単なる妄想に過ぎず、厳しい歓迎ぶりが身に染みた。

 全身のくたばり具合は想像以上で、大腿筋が痛みペダルはやたらに重く、腕には力が入らず、フラついた。
 この様子を偶然見かけた人は、たぶん笑いを堪えるのに困ったのではないかと思う。
 ペダルの一漕ぎに、えっちらおっちらと体重を預けながらの、わずか4キロ程度の自宅までの道のりが、往路と同じとは思えないほど長く感じられた。

  ** ** **

 誰かの誕生日がやってくると、それぞれ手作りのプレゼントを作って渡した。

 殺芸からのプレゼントは、自分で撮影した写真を引き伸ばしてパネルに貼ったもの。僕がバンド演奏する機会があると、殺芸いつでも駆けつけてくれ、いろんなアングルで撮ってくれた。他の人が撮る写真は、まるで静止しているようなおとなしいものになることが多かったが、彼の撮影だと、いつも動きの感じられる迫力あるものになっていた。まるで音が聞こえてくるような写真なのだ。
 だから、いつもプリントが出来上がるのが楽しみだった。

 僕からのプレゼントは、1本のカセットテープ。
 その内容は、オリジナルやコピー曲を、ピアノと電子オルガン、そして歌を多重録音して作ったものだった。

 リマタは、大抵絵の具を塗った板に、釘のようなもので引っ掻いて描いた絵を持ってきたが、僕の誕生日には、実に奇妙なものを持ってきた。

 20本入りのタバコケース程度の小さな箱を持ってきて、開けてみろと言う。
 なんだか妙に意味有り気な顔をしているので、おかしなカラクリが仕込んであるようで、少し嫌な予感を感じつつ、蓋を開けてみると・・・、

 そこに入っていたのは、人の手の指の形をしたものだった。

 切り口のところは鮮やかな血の色。リマタの左手を見ると、中指に包帯が巻いてあり、不自然に短く膨れ上がっていた。

 「ちょっとそれ触ってみて」

 と言うので、手を差し伸べて触れてみると、その途端に背筋がゾクッとして、慌てて手を引っ込めた。
 その感触は、まさしく人の手だった。物体に触ったというより、人の指先と“触れ合った”という感じがした。
 
 「僕の指だよ」

 リマタは、ニヤリと笑った。

 「血が抜けると、そんな色になるんだよ」

 その蒼ざめた指には指紋もあり、実物そのものといった弾力を備えていた。
 ― 解剖用の死体置き場に忍び込んで切り取ってきたのかも・・・ ―

 一瞬そう思った。思考をかき乱されてしまった。

 うほど、その指に触れたときは、本当にショックだった。

 どうやって作ったかなかなか明かさなかったが、ついには白状して「ガムで作った」と言っていた。そのガムというのが、一体どのような物なのかまでは訊かなかった。

 このように、リマタは人を驚かすことに不思議なほどエネルギーを費やすことがあった。そんな具合だったので、リマタがノートに何かを書いても、皆あまり真面目に受け止めようとはしなかった。

 だから、あのことを書き始めたときも、みんな大して気に留めていなかった。
                     (つづく)


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