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奇跡の1本松〜伝承すべき先人の教え〜

どうもどうも、吉良です。

僕の故郷は大分県ですが、実は青森県の八戸市で生まれました。
1歳6ヶ月までしかいなかったため、ほとんど記憶はありません。青森県と僕のつながりは現在のパスポートにはなくなっていますが、以前はあった「パスポートの出生地の欄」だけのものだったように思います。

それだけのつながりではありましたが、生まれた土地という親近感もあり東北地方への想いはずっと持ち続けていました。そんななか2011年3月11日に東日本大震災が発生し、東北地方を中心に大きな被害がありました。僕は10年以上向かうことができていなかったのですが先日ようやく訪れることができました。

長い間向かうことができなかったのには理由があります。
きっかけになったのは2001年の9月11日に発生した世界同時多発テロでした。

それまでの僕は、大都市でスポーツやミュージカルなどのエンターテインメントを楽しむのが大好きで、1990年のFIFAワールドカップイタリア大会を皮切りに、1994年のアメリカ大会、1998年のフランス大会、そのほかにもUEFA EURO 1996イングランド大会、アメリカズカップ、F1などの機会に世界を回っていました。

しかし、マンハッタン島で同時多発テロを目の当たりにした僕は、被災した地にいることやテロの可能性がある地への恐怖が拭い去れずにいます。それ以来、テロに狙われやすい大都市へ向かうことができず、2001年以降は大都市でスポーツやミュージカルを観ることができていません。

リゾート地と呼ばれるような場所でしか完全に心を休めることができなくなってしまいました。唯一の例外が富山県をマンガデザインの中でも紹介した、娘の留学先で全米有数の安全な地、オレゴン州ポートランドに行ったことくらいです。

この同時多発テロ体験やワールドカップ記については後日改めて記事にしたいと思います。

今回、3日間をかけて行ったのは岩手県でした。
東日本大震災で特に津波で大きな被害を受けた県のひとつです。

まず、釜石市へ行きました。
僕はサッカーをやっていたのでもちろんサッカーが好きなのですが、観るのはラグビーも大好きです。その気持ちを高めてくれたのが「北の鉄人」と呼ばれ1978年から日本選手権7連覇を成し遂げた新日鉄釜石でした。

松尾選手や森選手の勇姿はしっかり脳裏に焼き付いています。その歴史は震災を乗り越えて現在も釜石シーウェイブスと言う形で引き継がれています。

かつて鉄の町だったその地も、製鉄業の大きな変化と東日本大地震により、違う街に生まれ変わっていました。過去のものが新しいものに生まれ変わっていくことは悪いことではなく、進歩であるとも考えられます。しかし、そのきっかけが時代の変遷や大災害であるのはとても悲しいことだと思いました。

宿泊した旅館の女将さんは、当時津波にのまれながらも奇跡的に助かったという経験を持つ方で、貴重なお話を伺うことができました。その体験はあくまでもご本人のお話を聞いてこそ伝わる話なのでここで書くことはできませんが、過去の体験を未来に繋ぐ大切さを感じさせていただき感謝しています。

宿から見た海

宿の目の前に海がありましたが、まだ、2022年3月現在で2,523人の行方不明者がいることもあり、初めて沖縄県に行ったときと同様に、今回は海には入りませんでした。

その後は、慰霊の地に赴きたく、陸前高田市にある「奇跡の一本松」や、その近くにある国営追悼・祈念施設「高田松原津波復興祈念公園」「東日本大震災津波伝承館 (いわてTSUNAMIメモリアル)」を訪れました。

東日本大震災津波伝承館から見た広田湾
海側から東日本大震災津波伝承館をのぞむ

「奇跡の一本松」は、日本百景にも指定されていた景勝地に生い茂っていた約7万本の松の木のうち唯一残った松で、復興のシンボルとして被災者たちの心の支えとなっていたものです。

現在はモニュメントとして保存整備されており、今でも心強い支えとして存在しています。伝承館側からすぐそばまで行き、川向こうからもその逞しく生き、その後もたくさんの方々に支えられて今日の形になった姿をしっかり目に焼きつけました。

川向こうから見た奇跡の一本松

また、4階までが浸水してしまった跡が残る5階建ての建物もまだそのままの状態でその場にありました。他にも大船渡市、三陸町、大槌町、宮古市に行きましたが、災害の爪痕はまだ各地に残っていました。

「奇跡の一本松」と震災遺構のひとつ「陸前高田ユースホステル」

実際に現地に行ってみて「復興」という言葉の難しさを感じました。
復興してきれいになったと言葉で聞いていても、それは何もなくなったところに新しいものを創った場所であり、そこにはもともとあった建物はなく、誰も住んでいないところがほとんどでした。

この状況を「復興」という言葉だけで済ませてしまうのは適切ではないと感じましたし、この言葉を第三者である僕が簡単に使ってもいけないという気持ちになりました。しかし、どのような言葉が適切で、相手の立場に立った表現なのか、解答は今になってもなおわかりません。

現代は、テレビやSNSなどのメディアを通して、何が起きたのかを知ることが容易になりました。しかし、技術が進歩しても伝えられない空気感や人々の想いや温度感、そして環境が発する臭いなどの情報はまだまだたくさんあります。自分の目で現実を見る必要がある、と改めて感じました。また、つらい経験を語り継ごうとしている方々を応援し続けたいとも思いました。

「命を守り、海と大地と共に生きる〜二度と東日本大震災津波の悲しみをくり返さないために〜」このようなメッセージが伝承館のパンフレットには記されています。そのために大切なことである「先人の教え」を考えた時、ひとつの答えを感じました。それは「自分の命を守る為に"避難"することの大切さ」です。

先日も鹿児島県の桜島の噴火警戒レベルが5に引き上げられました。7月に各地で発生していた線状降水帯は想像を超える雨を降らせます。地震の後には津波の可能性があります。我々が生きる現実空間を守る仮想空間では、高いレベルの気象予測がなされています。
しかし、そのレベルを超える力を自然は持っています。

だからこそさまざまな災害が近くに起こったとき、僕たちにできることは「避難」することです。とにかく生きることを優先すべきだと感じます。自分の安全は自分で守るしかないのです。

たくさんのことを今回学ばせていただきました。そのことを教えてくださった、東日本大震災で亡くなられた方々に感謝の意と哀悼の意を捧げます。

今回、岩手県に行き、今度自由に海外に行ける状況になったらニューヨークに行ってみようと思うことができました。コロナ禍が過ぎ去ったら、「発展」したニューヨークを前向きな気持ちで観に行きたいと思います。


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