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丹田を理解するには

丹田とは感覚です、とか重心ですとか、色々な意見がありますが、厳密に言うと、それは間違いで、現代の一つの用語で丹田を個体的に限定的に指し示すことはできません。
その理由は、東洋医学は関係性や機能で捉えるためです。
つまり、私たちは西洋のパラダイムで物事を捉えようとしますが、東洋のパラダイムを理解できないと丹田を深く理解はできません。

例えば、東洋医学の脾という臓腑は、西洋医学の脾臓とは違います。
東洋医学の脾は消化・吸収に関わり(運化・消清・統血)、かなり広い範囲のことを脾と言います。

ちなみに、和漢三才図会(わかんさんさいずえ)の脾はこんな形をしています。

和漢三才図会の脾

こんな形の臓器はないのですが、これについてはまたどこかで述べたいと思います。

丹田も同じように、丹田というものに様々な機能が紐づいています。

元々は、丹田とは、不老長寿の丹薬を生成する場として書かれています。丹田の「丹」は不老長寿の丹薬、「田」は場所を意味します。

『難経(なんぎょう)』には、

臍下腎間の動気は、人の生命なり、十二経の根本なり

とあることから、丹田とは生命力と言えます。
この『難経』を出典として丹田を江戸時代に広めたのが貝原益軒です。

それから次に、病気を治癒するという機能が付随します。これは天台智顗の『摩訶止観』や『天台小止観』に書かれています。この丹田が病気を治癒すると言うのは、現代で言う、ホメオスタシス・恒常性維持機能であると言えます。日本の江戸時代中期の禅僧・白隠も、丹田を練る、錬丹によって禅病を平癒し、その錬丹法を広めました。

この白隠の錬丹法を剣術に取り入れたのが白井享であり、その弟子の平野良元という医者は、著書にて、技芸を行う時も、日常の動作も、丹田を中心として行え、としています。つまり、丹田が現代で言う重心として捉えられています。

時代は前後しますが、臆病であった北条時宗に対し、丹田に心を置くとよいと教えたのが無学祖元です。この時、日本は蒙古襲来という国難に遭遇しますが、北条時宗は丹田を錬ることで落ち着いて対処することができたとされます。つまり、丹田は心身の安定を関係します。

このように、東洋では、先人の教えを否定するのではなく、その上に積み上げていく「加上」によって発展していきます。

この加上という言葉は、江戸時代の学者・冨永仲本の言葉です。
仏教の経典は膨大な数、存在しますが、当時の人は全て釈迦の教えだと思っていたようです。しかし、この多くは後から付け加えられたものだと言うのが加上説です。

丹田も、原初は中国の道教から発生し、それが仏教や医術に入り、それが剣術などの技芸や一般庶民の日常動作にまで入ることで、様々な丹田観ができ、それが重層的に重なって、現代の丹田観ができたと考えられるのです。

そのため、丹田とは感覚です、意識です、とか、重心ですとか、様々な人が様々な丹田説を言うようになります。しかし、これらは正解でもないのですが、間違いでもないと思います。それは丹田の一要素に含まれるからです。しかし、それが全てではないということです。つまり、丹田とは包括的概念として捉えていけばよいと思います。

この丹田という包括的な用語のよいところは、

「丹田」

と一言あれば、意識・感覚・重心・腹圧などの様々な要素が同時に働き出し、生命力・治癒力・不動心などが想起・発揮されると言うことです。ここには現代の科学で説明できることもありますが、プラセボも混じっていると思います。このプラセボも含めて、心の力としての丹田でよいと私は思っています。

そのため、

「丹田は重心である」

とは言わず、

「丹田とは重心と関係している」

と言うのがよいと思います。

しかし、もし丹田を一言で定義するなら、一番原初の定義に戻ることです。そして、それは語源的な定義となるはずです。それが前述した、「丹田」の「丹」とは不老長寿の丹薬であり、「田」とは場所を意味する、ということです。つまり、丹田とは「生命場」と捉えるのがよいと思います。

そして、丹田の本体は「気」と言うものです。「丹田」とは「気」の貯蔵庫であると考えられているからです。

「気」とは、

「気が集まれば即ち生、散ずれば即ち死」

と古典で言われることから「生命力」として捉えることができます。この生命力である気が集まる場が丹田という生命場であると解釈できます。

ですから、丹田とは感覚です、とか意識です、とかイメージです、というのは厳密には間違っているのです。丹田とは気の集まる場ですが、感覚とは別物です。感覚とは、知覚神経の情報が体性感覚野で処理されたものを言います。気を感じることを気功用語では気感と言いますが、気感は気そのものではないのです。

意識を集中すると気は集まります。これを意守と言います。このように、意識と気は関係しますが、意識とは気そのものではありません。

イメージを気功では意念と言います。この意念を用いて気を練りますので、意念・イメージは気と関係しますが、意念・イメージは気ではありません。

しかし、これら意識・イメージ・感覚は気と関係しているとは言えます。しかし、これらは気そのものではありません。同様に、これらは丹田と関係していますが、丹田ではないのです。

それでは、「気」とは何か?ということですが、それは長くなりますので、また別のところでお話したいと思います。

また、本当の意味で丹田を理解するには、丹田を実際に鍛錬してみることです。そして、それを自分の身体を通して言語化してみることです。

それでは、また。


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