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あの日あの時あの決断

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あの日あの時あの決断

僕は22〜23歳くらいから
インディアンジュエリーという
存在を知りました🥺
正直最初は高っか‼️
誰がこんなの買うんだ‼️
とその当時のアクセサリーなどを
一切付けない僕は思っていました😅
しかしその当時仕入れ等は
全てお前に任せるといわれ…
いやいや無理でしょ‼️
こんなん無理ゲーでしょ
と思ってました‼️
しかし、毎日ジュエリーを磨いたり、
ジュエリーの本を買いあさって読んだり、
ネットに情報が無いかかじりついたり、
そうこうしているうちに徐々に
好きになっていき、
そのまま頭の先までドップリ
浸かってしまいました…
いつかアメリカに行きたい、
と思っていました…30歳までには…
その当時からのお客さんにも
「30歳までには行きたいですね〜」
なんて言っていたのを思い出します。
しかし本業の仕事は多忙を極め
まとまった休みなど取れるはずもなく…
もちろんそれは僕がレザークラフトや
オーダーをしていただいている
お客様に対しても底知れぬ愛が
あったからですが…
まずマインドが
「行きたいですね〜」
という言葉の時点で
どこか心の中で行けないと
思っていたんだと思います。

そうこうしているうちに
子供もでき、
アイドルにハマり
30歳を超えていました。

しかし日に日にジュエリーへの
愛は深まるばかり…

しかしその頃会社の方針は
ジュエリーはもうそこまで
力は入れたくない…
という感じでした…
しかしそれは会社の決定ですし、
もっと本業に力を入れたいという
意味では正論ですし、
そこに文句はありません。
真っ当です。

しかし…
毎週の様に来てくれる常連さん、
ジュエリーの入荷を待つお客さん
そして日に日に深まるジュエリーへの愛…
沖縄で最高のジュエリーを扱う!
そして待っているお客さんに届ける!
と思っていたので、もどかしい日々…
社長にも「沖縄では僕がしかできないからやらせて欲しい」
って何度も言っていたのも思い出します。
その頃には何故か35歳までには
「絶対にアメリカに行く‼️」
とお客さんには言っていたと思います。
そして決断の日
33歳の6月1番近い祖母の他界
僕が物心つく時からずっと
那覇アンダーグラウンドな
「平和通り」でもない、
「サンライズ通り」でもない、
超絶DEEPな「新天地市場本通り」の
それも看板も出さず
誰もわかり得ない2階の
倉庫の一角で数十年
洋服をつくってました。
本当好きな事黙々と
やっていたんだと思います。
なくなる前の数年は
ほぼ寝たきりでしたが、
喋れる時はあんたは
今好きな事をやっているんだねーと
言っていました。
好きな事できるのは良いこと、
と話していたのを思い出します。

そんな祖母が亡くなった時に
「多分このままだとずっとアメリカには行けない」人生1度だし好きな事しようよ。
と思い会社を出ました!
そして34歳の夏いろんな人の力を借り
「初のアメリカへ」
超楽しかった‼️
アメリカにいる間
朝から晩まで寝てる時も
24/7最高の気分でした。
「※YouTubeで初日みてみて」
帰る時には「また絶対戻ってくる」
という思いでした。

そんな最中この世の中に
なってしまい日本から
アメリカに行く事はできない状態へ!
もしあと1年決断が遅れていたら
僕は一生アメリカへは行けなかったと思う。
会いたかったアーティストには
会えなかったと思うとなんというか…
決断させてくれた祖母に
感謝しかありませんね。
気づかせてくれたのかも… 
おばーありがとうね。

おや?
そんなこんなうちに
僕の麦職人の缶が空に
なってしまった様です…

このまま細かい想いを
話すと3万文字くらいになって
簡単な本くらい出せそうなので
此処いらで終わりにします。

写真はあの日撮ったセドナでの写真を1枚
絶対また戻ります‼️

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