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役に立つ人になりたい

機関車トーマスでは、「役に立つ機関車」という単語がたくさん出てくる。
それをよく見ているうちの子は「役に立つ僕!」と言うようになった。

それでいいのか?と思う。

ひと様の役に立つことはいいことだと思う。自分もひと様にお世話になって生きているのだから、自分にも負担をかけず誰かのお役に立てるならそれが一番いい。

ただ、あまりにも「役に立つ僕!」を強調しながら、ごみ捨てや洗濯物干しやたたみ、モップかけなどをがんばっている我が子を見ていると「役に立たなくてもいいよ。君は君のままでいいから」と言いたくもなる。

それでも「役に立つ僕」を認めてやらねばと思って「いつもありがとね」としぶしぶ言うのだが、それを「褒められた!」と素直に喜んでくれるのだ。満面の笑顔で。

そんな子どもに対して「役に立たなくてもいいよ」というのは、たぶん良くない。でも「役に立つ」ことを自分の存在理由にはしてほしくない。そこで葛藤が生じてしまう。

自分は本当はやりたくないけど「役に立つこと」だから、やればママが褒めてくれると思っているんだろうということはわかる。
褒められることが少ない障害者にしてみれば、それは大切なことだろう。

すごく楽しそうに「役に立つ」ことをしてくれるのは、本人の褒められ願望も満たし、私の家事も少なくなり、結果的には一緒に遊ぶ時間も増えて、彼も満足しているからだと理解もできる。

なので、主治医の先生はにこにこしながら「いいことなんじゃないですか?褒めてあげられることが増えるのはお互いにとっていいことです」と仰る。

外でも「役に立つ僕!」をがんばっている。これはやっといた方がいい。人は誰でも他の人の手を借りて生きているのだから、できることで恩返ししなさいと教えてもいる。

彼は作業所でも人がやりたくなさそうなことを率先してやっているそうだ。時間があれば掃除をしたり、草むしりをして過ごしているという。
日本語がいまいち通じないので他の人のように休憩時間に「しゃべる」ということができない。必然的に一人でぶらぶらする時間ができる。だから一人でできる(役に立つ)ことをやっているという状態なんだと思う。

「役に立つ」ことは暇潰しにもなるし、褒めてもらえる。それでも疲れずに毎日元気に通っているから、まぁいいかなと思っている。

でも、家の中でまで役に立たなくてもいい。
子どもなんだからもっと甘えてほしいと思うのは贅沢なんだろうか。

トーマスが「僕は役に立つ機関車だからね!」と自慢気に言うたびにげんなりしてしまう。「もう、それ、言わないで」と真剣にお願いしたくなる。

彼は以前、タブレットを見ながら首だけをこちらに向けて「うっぜーし」と言った。そのときの私の喜びがわからなかっただろう。常に大人の望む「良い子」であろうとしているように見える。

そりゃ「悪い子でいたい」と言われるよりは「良い子でいたい」と言われる方が安心する。でも、もしも「良い子も悪い子も僕」と言われたなら、泣いて喜ぶ。

0か1という解釈しかできないから困る。そういう障害だからしょうがないと諦めてしまうのも悔しい。

もう少し日本語が理解できるようになれば、いつかわかる日がくるんだろうかとも思うが、言葉じゃない気もしている。

どうしたら「そこにいるだけでいい」を伝えることができるんだろう。

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