「世界中を敵にしても君を守るよ」というラブソングは多いけど、

世界中が後ろ指をさしても君を守る
世界中を敵にしても君を守るよ

メロディを変えて、言い回しを変えて、それでも歌われ続ける歌詞。

検索したら、こんなものがヒットするくらい。

重複もあるし、「すべてを敵にしても」とかもあるけど、絶対カウントしきれてないからもっと多いはず。

さて、ひねくれた考えをすれば、「世界を敵に回すって、マジで彼女なにしたの?」「世界観は最終兵器彼女?」「もしくはターミネーター?」…など、「世界を敵に回すことをしでかした彼女。何をした?」という大喜利は尽きないのだが、

シンプルに、「何があっても、絶対味方でいる」という、自分の安心できる場所を作っているよ、というメッセージは、嬉しい。


本当に世界中を敵にしても味方でいてくれるなら、ターミネーター張りの頼もしさなのだが、別に、世の人はパートナーに往年のアーノルド・シュワルツネッガーも、アベンジャーズも求めてはいない。

味方でいてほしい「世界」は、もっと狭い

たとえば、

会社という社会とか
人間関係という社会とか
親子親族とかの社会とか

そんな身近で狭い「世界」で私たちは戦っている。


嫁姑問題では、「世界中を敵にまわしても」いいと言った人の前に「自分の母」という別枠の存在が立ちはだかり、その場面では味方になってくれない人もいると聞く。

それは「内と外」の考え方で、敵に回してもいい「世界」はあくまで自分と切り離された「外」の存在で、自分の母は自分にとって「身内」だから、「外」の存在ではないからだろうな。

多分「世界中を敵にしても」と言っているときは、世界とは「自分とパートナー以外の存在」を指しているのに、世の中うまくいかないものだ。

だけど、私たちが普段生きている「世界」って、そんな「内」と「外」の混ざり合ったどうしようもなくしがらみだらけの狭い世界だ。


と、私はこんな風に今書いているけれど、きっと「世界」の見方だって、どの観点かで変わる。自分が普段どの規模で「世界」を意識しているかで、視野の広さは変わって、すべての行動も感じ方も変わる。


このnoteで書いた「世界」は、本当に狭い狭い世界のはなし。

だけど、1番「味方でいてほしい瞬間」に感じる世界の話。



「世界中を敵にしても君を守るよ」なんて歌詞が染みる日は、きっと本当に狭い世界で傷ついているとき。

自信や気力がなくなって、足元がぐらついて、広い「世界」に気持ちを向けられない時なのだろう。



自分相手だろうと、他人相手だろうと、「世界」と渡り合うための言葉は、持っておきたい。


自分を、相手を、安心させてあげるために。


なにがあっても、見捨てない。味方でいるよ。

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