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自己肯定感のラットレースから抜け出したい。自信をつけたい。幸せになりたい。

自己肯定感をあげるには、まずは自己受容。

そのためには、「自分はどんな自分だっていい」と受け入れること。

この、たった2行で終わることが、なかなかできないのはなぜだろう。

「どうすれば自信を持てるのか」「どうすればコンプレックスを乗り越えられるのか」……それをずっとずっと考えている。

方法論がわかったって、ずっとぐるぐる、考えている。それこそ、ラットレースから抜け出せないハムスターのように。

同じことで悩み続け、本を意味続け、情報を集め続け、考え続け。

noteにまとめた本は、この記事くらいだけれど、

「嫌われる勇気」はじめ、アドラー心理学からなにから、片っ端から読んでいるし。基本の目線がそれだから、考える視点も同じで、だからこんなnoteにもつながっている。



山田にも、ゆきりんにも、非常にリスペクトを持っている。尊敬レベルで。

ゆえに書いているし、それを昇華しているからこその、記事なのだけど。

ふと、「もしかして、人の嫌なところ、目につく癖がついてる?」と感じた。

リフレーミングをすることもあり、結構人が言ったネガティブなことも、すんなりポジティブに言い換えられるので、「ポジティブ!!!」と言われることが、実は多い。だけど、自分に対して「いいんだ」「なにもできなくても、価値がある」と言い聞かせる一方で、それをする瞬間はいつでも「あぁ、また~~できなかった」とか、自分の嫌な部分を実感して、口に出してしまった後だ。本当に自己受容できていれば、きっと、そんな風にはならない。


私の目標の1つに、関わる人の自己肯定感をあげる存在になる、というものがある。

自己受容は、他人の力があるほうがやりやすい。自分で自分を認められないから、自分の言葉が信じられない。だけど、他人に素直に「いいよ」と何度でも言ってもらえることで、積み重なるものがある。

私は、私以外の人にとっては他人だから、他人の私にできることがある。そう思って、日々、リフレーミングもするし、ポジティブな言葉も相手に使いたいと思う。


堂々と生きたいから、人がどうコンプレックスを乗り越えているのか、昇華しているのか、がすごく気になる。

そこに法則があって、それを知って、自分も誰かも幸せになりたいと思っている。だけど、その目線が、実はネガティブなのかもしれない。

人のあらを、探しているのかもしれない。自分のあらを探すことに慣れすぎて、「~~~なのに、どうして」になるのかもしれない。山田も、ゆきりんも。失礼極まりないよな、そうならば。

それでも堂々としている姿に、自分を表現している姿に、人をひきつけるプロデュース力に、プロ意識に、本当に尊敬しているから、推しとか関係なく、好きなのだけど。


「自己肯定がほしいラットレース」から早く抜け出したい。

私は私が幸せにするしかないのだから。

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