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シュガーマンのせいにする


とある喫茶店での出来事だ。

私はその日、昼食も摂らずに集中していた仕事を終え、ふと、"珈琲が飲みたい"と思った。
勿論、家にはインスタントコーヒーも、頂き物のドリップコーヒーもある。
しかし、私の身体が今、猛烈に所望しているのは、挽き立ての豆の香りである。家には豆がなかった。

私には拘りが強い人間にはなりたくないという拘りがある。きっと思春期に拗らせた自意識のせいだ。
柔軟性があり、親和性のある人間でありたい。要するにかっこつけなくないのだ。

でも、美味しい珈琲が飲みたい。
これは私の健全な欲望であり、決して、''仕事を終えた大人の私"に酔っているのではない、と判断し、喫茶店を探した。ここまで自問しなくては進めない辺りが、私の抱える気色悪い自意識の不徳の致すところである。私はそんな決意を胸に、文庫本一冊と緑の革財布を手に家を出た。

その喫茶店は、アイスと珈琲の店だった。

夫婦二人で切り盛りしている様子で、客は少なく、静かな店だった。小腹が空いていた為、アイスと珈琲を食そうではないかとその店に決めた。
かわいらしいお母さんに案内され席につき、意気揚々とメニュー表を見つめた。成程。アイスとケーキ、どちらのセットか選べるようだった。

ここで、私に企みが生まれてしまった。
これが、運の尽きであった。

"シュガーマンのマーケティング 30の法則"という本をご存知だろうか。
人がモノを購入する心理的トリガーを紹介したビジネス書である。内容はわかりやすく、面白いのだが、私自身がモノを売る仕事をしていない為、実践に移せず、悶々としていた。

私はこの時、本書の一貫性の原理について紹介されたエピソードを思い出していた。詳しくは本書を読んで頂きたいのだが、チョコレートアイスにホイップを添えたモノが食べたい筆者が、注文が確約する前にその事を伝えると、チョコレートサンデーのシロップ抜きとして扱われ、チョコレートアイスとしての注文確約後に、ホイップ添えて貰える?と尋ねると、チョコレートアイスの値段で、ホイップが添えられるという、エピソードだった。

"人には確約後の交渉に対して「ついで」という意識で行動する一貫性の原理がある"という内容だったのだが、これについて、私はあろう事か、試してみたい!!と、猛烈に心惹かれてしまったのだ。

メニュー表にはサンデーとアイスは別で表記されていた。私は低脂肪乳のプレーンアイスにイチゴのコンポートを添えたものが欲しかった。店前で見た、いちごのコンポートの液面がキラキラつやつやと宝石のように私を誘惑し、頭から離れなかったのだ。

よし、やるならこれ程の好機はないぞ。そう意気込み、珈琲とアイスのセットを頼んだ。
そして、注文後、テーブルを拭きにきたご主人に、獅子奮迅と、己の持つ勇気を振り絞って申し出た。

「すみません、先程の注文なのですが、アイスにイチゴのコンポートを添えて頂けますか?」

そう伝えると、ご主人の顔はパァッと輝いてしまった。

「そうなんだよ!うちのコンポートは砂糖をほとんど使ってなくてね、さっぱりとしていて、これがね、本当にうまくてね、アイスにばっちり合うんだよ。」

おや。想定のリアクションと違う。
私の想定では、追加注文を受けた店主は厨房へ戻り、アイスにコンポートをかけて運んできてくれるはずだった。

それからも、おやじの話は続いた。
いちごのコンポートの製造方法、アイスの製造方法、奥さんに内緒で家に持ち帰り、晩酌と共にいちごのコンポートをかけたアイスを食している事...。

そして、数分後、奥さんがアイスと珈琲を持って現れた。すると、ご主人は厨房からいちごのコンポートの瓶を持ち出し、アイスの上にたっぷりとかけてくれた。

私は当初の目的を果たせたようで、ホッとしていた。

甘酸っぱいいちごのコンポートとさっぱりとしたミルク味のアイスが口の中で溶け、コーヒーの香りが鼻を抜けていく。至福、の一言に尽きる。あったかい珈琲がアイスで冷えたお腹を温めて、温と冷と甘と苦のループは幸せの円環であった。

そんな私を見て、楽しそうなご主人がサービス!と言って、ココットを差し出した。ココットにはアイスの木の棒がついていたので、違うアイスの試食かなと思った。

中を確認すると、それは
赤飯だった。

赤いお豆さんがピンクに色づいたお米の中からこんにちはしていた。

隣のご婦人たちの席にもココットがあり、覗いてみると、クッキーが何枚か入っていた。

それならわかる。何故赤飯なのだ。
私が変な注文したからか。私が赤飯好きそうな顔してたからか。いや、赤飯好きな顔って何。いくつもの疑問が私の頭をぐるぐると旋回し、答えが出ないまま、目の前のココットに帰着する。

ご主人は、また、この赤飯が如何にうまいかを語り始めた。確かに赤飯は美味かった。もっちりと。だが、わたしはあの円環の中で幸せを感じていたのだ。赤飯は美味いが、あの円環には帰れない。添える事もできない。どうすればよいのだ。

ご主人は、「うまいだろ!美味いものは何と一緒に食べても美味いからな!」という謎理論を唱え、その場を去っていった。


私は赤飯を全て平らげた後、珈琲とアイスのループに帰着した。

全て平らげ、森見登美彦の小説を半分くらい読み落えたところで店を出た。やっぱり店主はにこにこと饒舌に、美味かっただろ?と話し続ける。


「あ、おつり、100円多いです。」

屈強な職人魂と酔っ払いの前では心理的トリガーなど無に帰すのだと、シュガーマンもびっくりの結末である。

人間のカオスは深海よりも深く、謎に満ちた領域なのだ。




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