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夜がふけていく。日めくりのカレンダーが一枚めくれてから数時間が経った。時刻は午前2時過ぎであったが、二人は今何時かなど全く興味がなかった。時間の概念を数字化するのは形のない流動的物体を箱に押し込んで均等に切り刻むようなもので、極めて不自然で人工的だ。身勝手ともいえる所作である。なにより二人は今、胸の少し下の辺りから流れ出す水煙のような気持ちを吐き出すのに精一杯だったのだ。なので現在時刻が7:00だろうと、13:34だろうと、18:59だろうと、それは彼らの思考において優先される事項ではなかったのである。

二人は駐車場の隅っこに映える猫じゃらしの横にしゃがんで座っていた。隆の右膝と左膝の間には、パーソナルスペースの保ち方を熟知した夫婦くらいの距離があった。美葉は膝に腕を回すように、だらんと腕を垂らしていた。その長い腕を持てあますように猫じゃらしをちぎって、駐車場の白い枠線にそっとなすりつけた。

「外が暗いね」と美葉が呟いた。隆は「そうだね、すごく暗い」とぎりぎり聞こえる声量でこたえた。二人は屋外駐車場にいたし、物理的には外にいるので、屋外が暗いことを「外が暗い」と表現するのは少し奇妙だ。しかし、猫じゃらしが佇む駐車場の角-二辺を柵で囲われたそのスペースは、二人のスペースであった。なので二人が自分の領域と思う範囲の外側が外、それ以外は内、と区分わけができていた。実際、隆と美葉のしゃがんでいる場所は街灯の光がわずかに当たっており、そこ以外は昼の町が漆黒の霧に覆われたように暗かった。

二人の心は徐々に明るくなっていく火曜日の夜明け前の景色と共にいた。心の濃霧が時期晴れるのはわかっているが、どうしようもないといった具合である:今現在の二人の気持ちは真昼間の土砂降りのようだったが、二人ともその精神状態に疲れるには突然の土砂降りに慣れすぎていた。又、心の濃霧は日が登って沈むように陽が灯った後にまた現れ、また晴れ、ときに土砂降り、そしてそのあと虹を連れてきた。二人ともそのことを知っていた。つまり、夜が明けまた更け、そしてまた明ける度に夜の気配を感じていた。心は何日かに一度土砂降り、その後虹がかかり、そしてまた曇る、気まぐれであることを知っていた。その循環的な心の巡りを自然のものと受容しつつも、二人はまた巡ってくる夜や雨に絶望せざるをえなかった。そして今日もまた、二人はその駐車所の隅でぼんやりとねこじゃらしを弄んでいた。

「晴れるのかな」と隆が言う。「いつも晴れてきたじゃない」。隆は美葉がそう返答するのを知っていた。何十回も反芻したやりとりである。そうだね、といつも通りに呟こうとして隆は急に感情の律動を覚えた。僕たちはいつまでこうやって、循環する日常の中で心を騒がせては落ち着かせ、豪雨を降らせては晴らすのだろう。なぜいつまでも、巡り巡るとわかっているのに何度も土砂降りに耐えるのだろう。たまに起こる土砂崩れは修復に膨大な時間がかかるし、すこし天気の循環がきまぐれに速くなれば大地の回復は追いつかず、さらに大地がえぐりとられる。そうやって僕の心はずっと不可抗力に振り回されている。どしゃぶる度に呼吸がしづらくなり、晴れる度に次の土砂降りを思案しては心に影を落とす。もう嫌だ。

「僕はもう嫌だ」

心の律動を物理的に表現するように、隆は立ち上がった。すごくしなやかな律動だった。同時に、天井が低ければ折れてしまいそうな、線の細い律動であった。美葉はなんだかよくわからないといった顔で隆を見上げた。

「なにが?」どうやらなにかを言わないといけない雰囲気を感じた美葉がこぼした。

「僕たちはこうやって、毎日毎日気持ちの深く底で、朝がくるのをジーっと待っているよね」ここで隆は一拍間をあけた。美葉がなにかいうかもしれないと思ったからだ。美葉は何も言わなかった。文面の理解はできるけれど、隆の言わんとしていることはわからないと言った表情で隆の額の10センチほど上を見つめるだけだった。「もういやなんだ。僕たちは、どうしようもなく下降する気持ちの潮流に逆らうべきなんだ。」

美葉は10秒ほど、隆の目の少し上を見ていた。彼のつむじの毛穴一つ一つを観察しているかのようにじっくりと隆の頭を見つめた。そこになにか大切なものが隠されていて、それを見守らねばならないとでもいうように。「つまりあなたは」美葉はじっくりと考えてから口を開いた。「自然の循環を遮って、昼の時間を長くしたいということ?」隆は少しハッとして、だが口をひらいた「でもこれは、循環である必要はないんだ。僕たちが循環だと思うからそうなだけで、ずっと陽が降り注ぐユートピアであろうと思えばそれでいいんだよ。」美葉はまた少し隆のつむじを見つめてから口を開いた。

「じゃぁ、そのユートピアの影はどこに行くのかしら?隆、きっと、ユートピアの影にはいつもディストピアがあるのよ。光と影は表裏一体なの。それを無視して天国だけに居たいなんて、傲慢で反自然的な考えだわ。きっと三日三晩陽が照ったのなら、その後の三日三晩はずーっと真っ暗に違いないのよ。」美葉は20秒ほど間をおいてからすぅっと軽く息を吸った。「昼の後には夜がきて、又明けて更けて、、。それでいいじゃない?私たちって不完全で複雑なのよ。心の天気だけずぅっと晴れているわけにはいかないわ。それって不吉よ。」

隆は、美葉の言葉を完全に理解していた。ただ、なにかが腑に落ちないままもどかしかった。美葉の受容が羨ましかった。またくる夜更けに恐怖する自分を、それを受け入れられない自分がすごく未熟だった。ねこじゃらしの横で、隆は不自然に立ち尽くしたまま、座ることも、去って行くこともできなかった。


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