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『哭悲/The Sadness』に思う(ネタバレ有考察・感想)

「台湾から凄まじいホラーが来る!」との記事を最初に目にしたのはいつだったか。
その後各方面の有識者(著名映画ファンやメディア)からとにかくそのゴア・流血描写の容赦なさを紹介され、鳴り物入りで公開された『哭悲/The Sadness』。
ここまでの流れで、ホラー映画とアジアの恐怖描写が好きな私は完全に観に行く事を決めていた。予告編からも感じる前評判通りのグロテスクさに戦々恐々とし、途中退席の話とかトラウマ系の感想とかにも
「そんなヤバいのか……」
と思っていたら、前評判・前情報に無かった性暴力描写がキツい!先に言えよ何だこれは!という情報、感想をちらほらキャッチ。
「アングラ系ホラーならそりゃあってもおかしくないでしょ……タイトルのイメージで“悲しそうな辛い話”期待しすぎてない?」
って気持ちと
「もしかして『セルビアン・フィルム』的なヤバさを含むのでは……?」
って気持ちとで映画館に行かぬまま恐ろしくなりだしたのが、公開から一週間少しくらいだったと記憶している(この時点で東京の映画館は公開終了日が迫っていた)。

映画館に向かう時間がなかなか合わず、その間に『呪詛』を先に観るなどして、遂に8月頭、公開から一ヶ月経ってようやく新宿武蔵野館へ。
今回はやっと観ることのできた『哭悲』の話を書く。

※映画の性質上、暴力・人体破壊・グロテスク・性的な内容を含みます。
まず予告編で前情報として提示されていた内容や設定、映像絡みの内容を書き、警告文ののちに結末・ネタバレに言及する感想を書いていきます。


これは“ゾンビ映画”か!?彼らには知性、性欲、そして罪悪感がある

感染しても、症状はたかが風邪レベル……そんなウイルスの存在を、熱心に語る一人の研究者以外誰も気に止めていない、のどかな台湾の日常。
カイティン(女性)とジュンジョー(男性)のカップルの穏やかな一日の始まりから物語はスタートする。
二人の予定を楽しみにする彼女、それに無頓着で彼女を不機嫌にしてしまう彼氏。気のいいお隣さん(ちょっと風邪気味?)。
どこにでもあるようなアパートの朝は、ジュンジョーがふと目にした一人の老婆への違和感から不穏な空気に揺らいでいく。

血に染まる服で建物の屋上に佇む老婆。
カイティンを駅へ送る道すがら目撃したパトカーと、取り押さえられる人と、血まみれの布に覆われた何か。

カイティンを見送り馴染みの飲食店に立ち寄ったジュンジョー、そこに、先程の老婆がふらふらと現れる……

何の変哲もない日常、そこに漂う不気味な違和感、ここから一気に平穏が崩れ去る。
町には暴徒と化した人々がそこかしこで人を痛めつけ、異様な狂乱と流血と悲鳴に溢れていく。
正気を失った人々と死体に満ちた暴力の地獄絵図の中で、ジュンジョーとカイティンは再会の為に血まみれで奔走する……

暴徒と化して襲い来る人々は徐々に増していき、皆正常さを失っている。
この点でこの映画はいわゆる“ゾンビもの”に分類されているようだが、彼らはゾンビ(=単純な食欲ないし呪術者の命令で動くだけの死体)ではない(作品紹介として前もって明かされていた情報ではあるが、本編で明かされるのは終盤。予備知識がないと終盤まで彼ら暴徒がどういうものなのか分からず凄まじい恐怖だっただろうな)。

まず、生きている。生きた生身の人間である。恐るるに足らずと思われていたウイルスが変異し人の脳に作用するようになった、つまり、ウイルス感染・発症者である。
彼らはゾンビのように抑えきれない本能的な欲望に突き動かされているが、その欲望は食欲だけではない。嗜虐、恐るべきことに、性欲。
そして知性が残っている。時に連携し、武器を正確に扱い、明確な言葉を発する。

知性に裏づけられた欲望と暴力の衝動、つまり、思考した上で考えつく残虐な行動(ただ殴るとか食べるとかではなく、どこをどうすれば痛いか、相手が苦しむか)を頭が導き出す、その衝動が止められないのだ。
まるで、武器と論理的思考と拷問の知識を持った猛獣のように。

そして彼らは、瞳孔が拡張し真っ黒になった目を細め恍惚と笑っている。
しかし時にその表情のまま涙を流す。知性が残っている、その知性の中に罪悪感も残っているから。満面の笑みをたたえて己が行使する暴力が、どれだけ惨たらしいことをしてしまっているのかを理解しているから。

……以上が映画の大まかなストーリーと、ゾンビパニックのモンスターに該当する感染者の設定。

ゴアや流血が観れる人をも参らせる、グロ耐性だけでは回避しきれない露悪


殺人や血が多めですよ、というシンプルな過激さのゴアやスプラッタは、恐らくなんだけど「想像力の中の痛覚」に訴えかけると私は思ってる。
痛そうだなー、惨いなー、残酷だなー、という“嫌さ”というか。
しかし『哭悲』のゴアやスプラッタはそれにとどまらない。感染者の笑顔、知性、人体破壊や殺戮にとどまらない性的な暴力や欲望は、単に痛そうな血みどろや内臓爆発を見る恐怖とは全く違った感情を逆撫でする。
それは醜悪さへの嫌悪感だろう。
酷いな、怖いな、の気持ちと、そして
「こうされたくない」「こうなりたくない」
という人としての良心を殴りつけるような重たい感情。
そう、
まさに感染者が考えつく
「こうされたら嫌だろう苦しいだろう」「こんなことしてはいけない(が止められない)」
が、暴力描写を見て痛む良心に対し、むざむざと汚物を塗りつけるように執拗に苛む倫理観の軋みを味わう。

この映画を観て
「これの何がエンターテイメントなのか」
「異常で不要な不道徳映画だ」
「ストーリー性などなく、醜悪で卑猥な暴力を見せたいだけの作品」
等の拒絶反応を示す人もいるのは想像にかたくない。
ホラーの大前提として、パッケージングがエログロゴアである以上それが主力たる味つけなので、本作のエログロゴア要素を批判するのは醤油ラーメン頼んでおいて
「おい醤油味じゃねーか!」
なんてクレームを出すくらい的外れなバッシングではあるのだけど、それを期待・理解してる層以外も観るのが映画。なので暴力描写作品への嫌悪というのは至極抱きうる感想だし、夢と感動と教訓とカタルシスをハッピーエンドで締めくくる映像体験こそが映画を観る意義だ!というような人には全く向かない映画である。
ホラーやスプラッタやグロ好きの為の変態的映画だ!と言いたくなる気持ちも分かるし、現にこれらのジャンルは観る側に「ニッチ偏差値」のようなものが要求されるのがスタンダードみたいな所がある。万人ウケはしないし、悪趣味と括られる範囲の作品なのも理解できる。

けれど悪趣味の範囲なんて人それぞれ。
(たとえば私は若い頃の経験が原因で、若いカップルが余命宣告に悲しみ死に別れる“泣ける映画”を娯楽として観に行く人の趣味を理解できない。悪いとは思わないし軽蔑まではしないけれどね)
あっ、グロ耐性があることを審美眼かのように誇る中二病めいた価値観は私には無いと一応断っておく。
「一般人にこのグロの良さは分からねえか~(笑)」
みたいなことは一切思わない。爬虫類や昆虫を好きな人が犬猫好きに「グロ存在を愛せる自分達の方が動物好きやで!」なんてマウントをとらないみたいに、私はただ粛々と好きなものを愛でているホラーファンにすぎないので。

ネタバレの部分で後述するが、ホラーやゴアのジャンルに慣れた私でも一瞬良心が締めつけられるシーンがあった。きっと今後の同ジャンル観賞の度折に触れて思い出す。
それは描写の過激さでも残酷さでもなく、意外な人物のセリフだったのだけれど。

監督のホラー愛と随所の「そうはならんやろ」を受け取れるかで分かれる娯楽性の要素

「こんなエログロ暴力をエンターテイメントとして理解できない」って人も当たり前にいるよねって話をしたばかりであれなんだけど、血しぶき好きでなくても、ホラーファンなら随所に監督のホラーフリークっぷりを感じられる作品だな、とは本当に思う。
有名作品へのオマージュであるとか、誇張された表現や演出だとか。

ゴアものって、リアルゴアとコミカル寄りのゴアにある程度分かれる。
ホラー分かる人限定の例かなと思ってしまうのだけど、めちゃくちゃ分かりやすく言うと前者が『ギニーピッグ』、後者が『道化死てるぜ!』みたいな。
ああ、ホラーマニアじゃない人に説明するには、『金田一少年の事件簿』の殺人シーン(リアルゴア)と、『トムとジェリー』『スポンジボブ』で“岩に挟まれたらぺちゃんこになるカートゥン表現”(コミカルゴア)くらいの違い……と言えば伝わると思う。

露悪的な生々しい暴力描写の恐怖に満ちた『哭悲』にもホラーファンやゴアファンが「そうはならんやろ!」となれるコミカル寄り、明らかな作り物丸出しB級ホラー感ある所が挟まれてたのは、監督のこだわりというか遊び心なのかなとは思えた。
無論これらはホラー詳しかったり、大袈裟な人体破壊演出に「そうはならんやろ!」ってツッ込めるようなマニアだけ向けのテイストなので、万人に対して「評価できるポイントだよ」とゴリ押せる箇所ではないとは思うけれど。

ここから本編の内容やラストに言及した感想・考察になります!ネタバレ注意!!


「壊れていく人々」の強烈な個性

ゾンビパニック的な作品なので、逃げ惑う主人公vs凶暴なモンスターの集団、という構図が恐怖描写の主流になっていく中で、時折現れる「キャラ立ち感染者」の存在が本当にイヤな不気味さに満ちていて、それが一難去ってまた一難、感があり、ともすれば吐き気を伴う胃もたれに陥りそうなゴアと血の飽食を上手く乗り切らせてくれる。
・ポテトおばあちゃん
・シザーマンお隣さん
・サングラス電車男
・セクハラ斧おじさん
・体操服若者ズ
・スーパー小走りスキンヘッド君
・発症したリーシン
・しぶとエケチェン
・所々やばそうだった医者
そして
・たどり着いたジュンジョー

彼らの繰り出す暴力やえげつない言葉もそれぞれイヤな個性が発揮されていて、理性で普段押さえていたんだろう人間的な性格や発想が見えてくるのも怖い。
お隣さんは友好的な顔して、カイティンをいやらしい目で見たりジュンジョーを羨ましく思ってたりしたこともあったのかな、とか。
彼氏の出来なかったリーシンの純粋な鬱屈とか。
でもこのあたりって、彼らの異常性とかキモさでは決してなくて、人間なら誰しもが抱える煩悩とか内面でしょってのが分かる。

まあ、斧おじさんのいやらしさは群を抜いていた(笑)。
感染者の行為が陰惨すぎて「残酷に狂った人達」に見えているけど、根幹にこういう“猟奇の種”や“普段から息をするように動いてるエロセンサー”を抱えた人って別に珍しくもない事を知っている。
好きなキャラクターが凄惨に痛めつけられる妄想を好む同人誌ジャンルがある事とか。
昔バイト先にいた“穴”という単語を聞くだけでドぎつい下ネタにつなげる人とか(そいつがガチで嫌すぎてシフト全ずらししてもらってたくらい最悪に嫌いだった。個人的にコイツを思い出したのが最ムナクソでしたわ。斧おじさんのリーシンへの仕打ちってこういう発想が原動力だろうから。眼窩……つまりここも穴じゃん!興奮してきたな。みたいな)。
そういう、そこらへんの人間の少なくない人数が持ってる・でも普段はそこまで度を超していない欲望や嗜好や変態性みたいなものも、悪くも異常でもない、ほぼ当たり前の事なんだろうけどそこにウイルスが来たら……って、改めて意識しちゃったり。
若者達に痛めつけられてる途中で発症し、隠れドMが開眼した?みたいな、ちょっとギャグ要員ぽい男性とかその感じかもね。

逆に体操服の若者なんて「考えうる最も残酷な暴力」が、棒で殴ることと股間打ち付け遊び(配給会社さんのnoteによると、中国の若者の度胸試しみたいなメジャーな遊びらしい)と投石だからね(笑)。

私も揚げ物するときとかグツグツの油見て
「うっわ一瞬で表面が衣に……もし鍋ひっくり返ってこんな油が体にかかったら……ヒエッ怖」
みたいに、危険性分かるからこそのやばい想像して怯えたりするんだけど、これを危ない痛いと分かっててもやってみちゃったのが冒頭のおばあちゃんなわけだよね。

電車のサングラスの男性も。
地下鉄乗ろ~ってなって、
「そう言えば地下鉄で通り魔みたいに人を刺しまくった事件起きてたな。皆スマホ見たり無防備に寝てたり、そりゃ通り魔が出たらひとたまりもないよな」
みたいに思って、その恐ろしい想像と発想に涙を流しながらも凶行に及んだんだろう(ナイフ用意したタイミングは謎。乗る前に発症して購入し持ち込んだのか、普段から護身用とかに持ち歩いてるの?)。
この電車でのシーンも配給会社さんのnoteによると、台湾で実際に電車での通り魔事件が起きていて「俺は新記録か!?」って言葉は、その事件より殺傷したか!?って意味のセリフらしい。
おもむろに暴力が起こり、徐々に混乱が伝播していく電車のシーンのリアルさと、政府の放送の後口論から揉め出す・が発症なのか恐慌状態なのかパッと分からない病院のシーンが特にリアルで怖かったな。

「本能」とは?「感情」とは?
観る者に突きつけられる、ドキッとする言葉

終盤、斧おじさんにカイティンが立ち向かい、消火器でおじさんを思い切り殴る。
その時におじさんは言う。
「お前も俺と同じだ」
と。
ひと皮剥けば暴力や欲望に満ちている。このセリフが、スクリーンを観る側だった私にはドキッとするくらいに刺さった。

「血みどろエログロ暴力の映画だと知って、その残酷さを楽しみに観に来たんだろう?」
と突きつけられたかのようで。
お前も俺達のような、喜々として暴力を楽しむ残酷ゾンビと同じじゃないか。暴力映画を楽しみたくてここに来たんだろう?と。

そう……感染しウイルスのせいでおかしくなって人を襲い、殺し、欲に溺れて狂っていく人々を、感染してもおかしくなってもいない私達は娯楽として観に来た。
感染と発症が広がる悲劇を目の当たりにしながら、卑猥な言葉を喚く感染者にはどこか失笑し下卑たおかしみを感じ、手榴弾で頭が吹き飛べばコミカルだと笑い、おっぱいが出れば「おっ」と色めきたった人もいるだろう。
繰り出される陰惨な暴力に席を立つことなく、終盤まで延々見届けて来た。

そんな観客の好奇のサディズムに、おじさんの言葉が凄まじい皮肉になってじわりと染み込む。
ヤバすぎるゴア!残酷スプラッタ!という触れ込み以来ずっと映画館に行くのを楽しみにし、お金を払って残酷描写を観にわざわざここへ来てさんざん楽しんだ観客として、私は正直ドキッとした。
そのとき頭をもたげた感覚は、そう、いくばくかの
「罪悪感」
だった。
己の残酷さを痛感しながら罪悪感に胸を痛ませる、スクリーンの前にいた私は、まさに画面の中の感染者と“同じ”だった。
これは正直、このジャンルの映画を観てきた経験上かなりショックな映像体験だった。
『ホステル』や『セルビアン・フィルム』に出るような、スプラッタ趣味に大金をはたく金持ちの変態主催者の存在を観ては
「最悪な奴らだな」
と思っていた……思っていたのに。

そしてふと、ブラック企業で働いてた若い頃を思い出した。
夜勤の疲れ、ラッシュで男性に暴言を吐かれ突き飛ばされ、それでも怒りすら沸かない程すり減っていた頃。
前を歩く人が傘を斜めにしていて先が私のこめかみにかすれば
「安全に傘も持てないお前は社会にいらない危険で迷惑な人間。お前も前を歩く人間の傘が目に刺さり、ついでに脳まで届いて今ここでこの世からいなくなれ」
とボンヤリ思っていた。
電車に乗るのにニンニクや香水の悪臭が迷惑な人がいれば、
「予測できる悪臭を防がない社会不適合者はいなくなれよ。こんな奴ら、迷い混んだ部屋に有毒ガスが充満していて苦しんでいなくなればいい」
とボンヤリ思ってた。
疲弊し、怒鳴りも逃げも出来ない中で、暴力的な発想だけが冷静で怖くなって仕事を辞めたあの頃。

思い出して、本当に本当に、数秒間打ちのめされた。
そして『哭悲』のキャッチコピーを思い出した。

“あなたの中の悪意が目覚める”ーー

私の中にも悪意はある。否定できない。
そしてカイティンを助けた医者もまた、あの部屋で赤ん坊で人体実験し、カイティンの裸を盗み見ていた精神状態のどこからが感染症状だったのか……彼自身も分からないであろう事も更に相まって、観ていた私に不気味な嫌悪を抱かせた。

予想外の角度からグロテスクな痛みに襲われた余韻の中、映画はいよいよラストへ向かう。
カイティンの元へたどり着いたジュンジョー。しかし、彼もまた感染し発症していた。
途中で見た、マネキンの頭部が誘うような煽るようなおぞましい幻覚は、発症の兆候だったのだろう。
発症したジュンジョーは、カイティンに愛の言葉を囁くと同時に、残酷な願望をも口にする。それでも彼からは確かな“愛”を感じる。
性欲を抑えられない他の発症者の欲望の言葉とは明らかに違っていた。
ジュンジョーの中にはカイティンへの“愛”が確かに残っている。
“愛”は本能だから?本能的な欲望だから?けれどどんなに愛を囁こうと、残酷で醜悪な加虐欲を笑いながら隠しもしないジュンジョーは、もうかつてのジュンジョーではなくなってしまった。
カイティンは涙を流す。
笑いながら涙を流す感染者とは逆に、いや同じに、悲しみの涙を流しながら絶望に正気が蝕まれ狂った笑いがもれる。

ゴアと惨劇のスプラッタ描写に重きを置いたパニック映画なのでストーリー性や感動、メッセージ性はほとんど見られない映画だが、鉄格子を挟んだこの二人の対比は悲痛に胸を打つものがあった。

ジュンジョーから離れ屋上のヘリポートへ脱出するカイティン。
閉じる扉を見つめ、笑った表情のままのジュンジョーの元に、降り注ぐ弾丸の音が聞こえてくる。
抗体を持ち発症せず脱出できたカイティンも、医師を迎えに来ていたはずのヘリコプターから感染者と見なされ、屋上で狙撃を受けたのだろう。
ーーそれとも、ヘリコプターの操縦士も感染し、衝動を抑えきれずにーー?

愛しい恋人が今まさに殺された事を悟り、ジュンジョーはただ張りついた笑顔で二人を隔てる扉を見つめ、涙を流している。


……最もウィルスの知識のあった医者も死に、感染を止められる希望だったカイティンも殺されてしまった。
暴力のパンデミックはまだ、止まらない。

という、一点の曇りもなきバッドエンド。
そこに浴びせられるエンドテロップと怒濤のメタル。

『哭悲』、微塵の隙もない、限りなくソリッドに惨劇を描ききった衝撃作。
観たことを後悔はしていない。
間違いなく、私はこれからスプラッタ映画を観るたび、セクハラ斧おじさんのあの言葉、あの表情を思い出すだろう。
個人的に特別な一作になった。




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