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時のふるいにかけられて

前回の往復書簡
『ダンス/空手』

KA!RA!TE!あのはーしゃんが!
なんて興味深いの…。
でも、突如、ダンスっていいよね、と、踊りたい気持ちを仄めかすまいちゃんと、近しいものを感じるなぁ。選択。熱意も然り。
前回と今回の往復書簡の合間で、半年ぶりくらいに、わたしたちは再会を果たしたわけだけれど、空手について聞くのをすっかり失念していた。短い時間だったものね。会って交わすものと、この場で交わすものが、趣を変えたものであることを実感する。どちらも素晴らしくて、嬉しい。また、ぜひ。

書きたいことは決まっていたのだけれど、自分の誕生日を挟み、数日、賑々、パタパタ、としていて、やっと。

少し前のことになるのだけれど、言葉の部分をお手伝いした、あいがもん倶楽部さんの帯が、形になり、送ってもらった。うんうんと唸って仕上げた自分の言葉に、時を経て再会する。一年の移ろいをそれぞれに愛でた最初の帯とは違い、父や母という概念の一般化が難しくて、考え込むほどに手応えがするりと逃げていくような塩梅だったのが、気張らずに客観視ができて、素直に、なかなかよい、と、思えた。

そしてまた、それよりも遡ってのことなのだけれど、大学時代のサークル(初期のジャズをやっていた)の後輩、と、夫がライブをした際に、わたしとの思い出として懐かしがってシェアしてくれたライブ映像、その自分の演奏、を、なかなかよい、と、思えた。と、いうこともあった。
普段は人前で演奏するなんて、実は穴に入りたいくらいなのだが(多いなる矛盾をはらむ己の演奏活動)。

前回、なかなか自分を肯定できずにここまできてしまった(『感受性おばけ』)、というようなことを綴ったのだけれど、立て続けに、なかなかよいじゃないのわたし、と、思えたことが、妙で、それでいて、小気味よかった。

時が隔てたかつての自分、というのは、間違いなく今の自分につながるものなのだけれど、どこか、分離してしまったもので(そういえば、『年を重ね賑やかにゆく』にもそんなことを書いたな。そんなことばかり考えているのだな。)、うまく客観視が出来るのだと思う。

娘たちと、小さな頃の動画をみるときに、彼女らにも似たようなことが起きた。

まず長女。
気持ちよく歌う小さな自分をみて、画面を思わず手で覆い隠し、恥ずかしい、と、きゃあきゃあはしゃぐ。
そして次女。
歩き始めのよちよち歩きや転倒する自分をみて、可愛いねえ可愛いねぇと喜ぶ。

恥じらいと、喜びと、に、分かれたことが面白かった。年齢か、性格か、そのどちらも、か。
長女にしてみれば、まだ、恥じらいを知らぬ頃、の、露わな姿が恥ずかしいのだろう。次女とて、恥じらいという気持ちには出会っているはずなのだが。
それでも、ふたりとも、小さな自分に出会い、とても嬉しそうなのだった。

わたしに置き換えれば、文章表現やライブ演奏としての、自分が『露わ』な姿は、長らく、長女に似て恥ずかしくてたまらない、に他ならなかったが、それが時を経て再会することで、あの時って頑張ってたなぁ、となり、頑張った自分に対しての思いは、可愛らしい、に、転じはじめているみたい。後輩たちによく感じているのに近しい気持ち。慰労と賛辞と敬愛と。

自分なのだけれど、今の自分とは、似て非なるかつての自分、に、嬉しみや可愛らしい、を、思うのは、やはり時間がかける魔法なのだろうか。それは、余分な気持ちがふるいにかけられるようでもある。

そういえば、先だって、自己肯定感の低い人向けの記事として『〇〇したいと思っているのに、△△しちゃう。わたしってダメだなぁ。』の文法(つまりは思考)は、『〇〇したいと思っているのに、△△しちゃう。わたしって可愛いなぁ。』に変えると幸せになれるというのを目にした。

自分を肯定する、とは、自分を可愛く思う、ということなのか。時間に頼らず、できるようになれば、しめたものだなァ。

と、友人から誕生日のお祝いにと贈られたロゼを飲み心地よくなりながら、思う。苺の香り、ザクロの酸味。自分を大事に思ってくれる人を、また大事に思うことで、わたしにとって難関の自己肯定は随分励まされている。

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