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感受性おばけ

前回の往復書簡
『部屋のなかの物語』

子どもとインテリアにまつわる色々、うんうんと頷きながら、読んでしまった。小さな物語とこだわり、それに尽きるね。わたしもあまりの散らかりぶりに、時たま我慢たまらず、ええいままよ!捨ててしまえ!となるけれど、やはりひとつひとつの物にしみついた物語に、手が止まり、捨てきれずにいる。生活感のある部屋、というのはもともと好きなので(探し物が多発するような状況はストレスなのでそこはクリアしたいのだけど…)、この珍妙な森の深まり方、お互いに楽しみだね。

さて、9月に入り、次女の幼稚園がお弁当ありの毎日登園(1学期はお弁当なし一日置きの分散登園)になったり、夫が日帰りでない出張や趣味の用事で留守にしたり、コロナ禍以前の日常と呼ばれていたものが、少しずつ戻ってきた。
書きたいことが泡のようにぷくぷくとわいては消え、あれよあれよと思いながら、息切れ気味のわたし。そして、あれなんだっけ?に至る切なさ。前にまいちゃんが、自分のことを、鈍臭い、と言っていたけど、わたしも相当の愚図で、、そんなわけで、腰あたりまで伸ばした髪を、ばっさりドネーションした話、など色々あるのだけれどそれはまた今度。
今日は感受性おばけの話です。

感受性おばけ、は、わたしの年若い友人について、そのご主人が形容したもので、わたしたちは年の差をこえて、これで響き合ってしまったので、たぶんわたしのことでもある。

感受性が豊か、と言えば、聞こえのいいこの特性。やたらめったら色んなことが響いて涙が出る、とか。怒ってる人がいると動悸がしてきてこわくなる、とか。そういうことには自覚があった。共感共振の強いタイプ。そういうことが、みんな(いわゆるみんな、顔のないなんとなくのみんな)と同じようにできないことが、なんだか恥ずかしく思えて、おおらかでいること、動じないこと、に、憧れた。経験と年齢を重ねると、上手くなる面もあって、成人し社会人になり結婚して、なんとなく、平らかな雰囲気で過ごしてきた。

ここで、長女がうまれる。

初めてのことだらけで無我夢中で育てながら、随分と繊細な子どものようだな、というところに行きついた。道路工事をしている道は大きな音が怖いので迂回しなくてはならない、とか、食べ物の食感に細かく拘る偏食、とか、みんなで集まって遊ぶと疲れやすく早く帰りたがる、とか。これは、生きづらくはないだろうか、と、気を揉んだりして、それで、いまよく耳にするようになった、HSCというのに、たどり着く。まいちゃんが、教えてくれたよね。

一番気を揉んでいたのは、入学前。小学校、大丈夫かな、という時期。蓋を開けてみれば、長女は、彼女らしく、そして随分と逞しく、社会との結びつき、そして居場所を作りつつあるので、わたしは讃えるばかり。もう、あれやこれやと思い悩んではいないのだけれど、HSPというのもあるんですよね。大人版。
そのチェックリストの当てはまり方が、笑っちゃうほどパーフェクトに近くて、わたしはやっぱり、ちょっと上手くなったと思ってたけど、それなんだ、と、驚きながら、受け止めた。

HSPとは、生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」という意味で、「Highly Sensitive Person(ハイリー・センシティブ・パーソン)」と呼び頭文字をとって「HSP(エイチ・エス・ピー」と呼ばれています。
HSPは環境や性格などの後天的なものではなく、先天的な気質、即生まれ持った性質であることがわかっています。
統計的には人口の15%~20%。5人に1人があてはまる『性質』であり、稀ではありませんが、裏を返せば、約8割の人はこの性質にはあてはまらないため、HPSの特性は共感を得ることが難しく、HPSでない人たちとの差に自己嫌悪を感じることや、まわりに合わせようと無理をして生きづらさを感じやすくなる性質といえます。

まさに、まさにこれ。
今も、『みんなは普通にしていることなのに、やるとしんどいな』、とか、『出来ないわたしは能力がひくいな』、とか、そんなふうについ感じてしまう。今の今、家族4人の日常の暮らしをまわしていくことでへとへとになってしまっている、というのも、これと近しい気持ちに繋がりがちで。

そうか、わたしは、生きづらい性質を持つ人間だったのか。それならば、むしろ今までうまくできないなあと思ってきたこと全部、たくさん頑張ったということなんじゃないか(結果はさておき)。

というのは、今年の4〜5月あたり、いわゆる日常というものからスッと身を引いたステイホームな期間に、心から感じることのできたこと。送迎がなくてむしろ楽だったし、家で好きなことをする時間は、出かけて人と会う楽しみに匹敵するほどで、思いの外、心穏やかだった。決まった時間に追われずに、子ども達とゆっくり過ごせたのもよかった。家事を気持ちを込めてやれたのも嬉しかった。今より手のかかる小さな娘達を抱え、かなりドタバタと、幼稚園の役員とか、PTA連合会とかを経験したこの数年。それらは嫌々やったわけでもないし、得たものも多くて、やらなきゃよかったなんて思ってない。でもさ、よくやったじゃないの。ねえ。

長女の気質についてあれこれと案じていた2年前くらい、『あなたが何かを上手にできなくてもわたしはあなたが大好きだし、あなたにも自分のことを大好きでいてほしい』と、押したり引いたりなだめたりすかしたりなんか色々の最後に、よく言っていた。言う度に、何故だか涙ぐんでしまい、不思議だったが、そのまま自分にも刺さって涙が出ていたんだと気づく。
わたし、随分自分で自分に呪いをかけてたな。ありのままの自分を肯定してやらなければ、というところに、子育てや、世界を飲み込んだ禍を経て、やっとやっとたどり着いた2020。人の世で随分頑張ったね、感受性おばけのわたし。おばけが心地よく生きる道、これから、子ども達と一緒に(教えられることばかり)、ゆらめきながら模索していきたいなと思う。おばけらしく。

(HSCやHSPという言葉は、正しい理解や共通認識あってのもので、どうもカテゴライズの枠だけがゴツゴツと目立ち一人歩きするような気がして、わたしはひとまず感受性おばけでいようかな、などと思っている。)

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