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怒られるよりもつらいこと。

1983年7月。
任天堂から発売されたファミリーコンピュータ、通称ファミコンは、世の圧倒的な支持を得て、空前のブームを巻きおこした。
当時幼稚園児だったぼくも例にもれず、ママ、ファミコン買ってよぅと事あるごとに母に懇願していたけれど、その願いはしばらくかなわなかったから、そのころは近所の1コ上のお兄さんのおうちに遊びにいくことでしかファミコンに触れられる機会はなかった。

小学校に上がるすこし前に両親が離婚し、母方の祖父母の家に引っ越しをした。
ひとり親家庭になってしまったし、しかも3歳の妹もいる。
そんな状況ではファミコンのオーナーになるという壮大な夢は遠ざかっていく一方なのは6歳のぼくにも理解できた。
おじいちゃんに甘え倒しておねだりするという一発逆転の策も試みたけれど、それもただちに生粋の体育会系である母の知るところとなり、苛烈なお仕置きを喰らって撃沈したのだった(一応母の名誉のために、虐待ではありません...。)。

祖父母の家は、前の家から電車で数駅のそう遠くない場所だったけれど、幼稚園からの友達は一人もおらず、小学校生活のスタートは不安に満ちたものだった。
帝王切開で産まれたくらいだから、ぼくは子どものころからおおきかったし、運動神経もよかったので幸いいじめられることはなかったけれど、クラスのみんなと打ち解けるまでにはもちろんそれなりの時間を要したし、子どもながらに努力したと思う。
あたらしい社会での最初の日々は、いま振り返っても必死だった。

そんな小学校生活にも徐々に慣れてきたある日の放課後。
友達何人かで帰り支度をしていたところ、そのうちのひとりが言いだした。

今日みんなでファミコンしようぜ!

ぼくはてっきりみんなで彼の家にいくのだと思ったし、あこがれのファミコンであそぶという彼の提案に一気にテンションがあがっていたから、いいよ~やろうやろう!と真っ先に言ったと思う。
名案!とばかりにほかのみんなもつぎつぎに賛同した。
と、ぼくにむかって、彼。

やったー!決まり~!
じゃあおまえんちで!

...??
おまえんちって。
話を聞くうちに判明したのは、どうやら彼もファミコンを持っていないらしいということ。
それは、ファミコンを持っているだれかの家にいって遊ぼう、という提案だったのだ。

オレも持ってないよ!
...と言おうとしたけれど、なぜだろう。
言葉が出ない。
せっかく打ち解けはじめた友達に嫌われたくないと思ったのか、その一言がどうしても出てこなかったのだ。

やってしまった、と思った。
でももう遅い。
後悔へのカウントダウンがはじまった気がした。

でもつぎの瞬間、ぼくの頭はもうその場を取りつくろうことを考えていた。

ムリムリ!!今日はムリだよー!
だって今日ウチ忙しいって言ってたもん!

と、わけのわからない理由で、わが家への訪問を却下しようとした。
ここは何とかやり過ごして、忘れたころにまた言われたら、そのときはウチのファミコン壊れたって言えばいいやと思った。

え~じゃあどうすんだよ~。

よし。うまくいった。このまま却下だ!
...しかし。
上手だったのは彼のほうだった。

じゃあおまえんちいって、ファミコンとりいってさぁ、
それでだれかんちいこうぜー!!

...。
不幸にも、わが家は小学校から徒歩1分のところに建つマンションの4階だった。
だからみんな、家まで来るという。
ほかにうまい言い訳が浮かぶ猶予もなく、あっという間についてしまった。

ちょっと待ってて。とってくる。

一緒に階段を上がろうとするみんなを何とか制し、下で待たせて階段をあがる。

やっぱり今日遊べなくなったって言おう。
もはや嘘をつきとおす覚悟のぼくは、靴を脱ぎ、家にあがり、今日はどうだったなどと学校での様子を聞いてくる母の声を背中越しに聞きながら、いそいそと玄関で靴を履いた。

ちょっとだけ友達としゃべってくる。

そう言って、階段をおりた。

やっぱりさぁ、今日遊べなくなっちゃった。

みんなの非難の声を聞く覚悟はできていた。
それによって友達を失う可能性もあったのに。
ぼくは自分の嘘がばれないことを、自分を守ることを選んだ。
もはやごめんとも思わなかった。
メンツのほうが大事だった。

しかし。
彼はさらに、ぼくの想像の上をいった。

じゃあファミコンだけ貸して。

もう、どうにでもなれ。
彼とふたりで家にあがる。
大きめのカラーボックス。ぼくの持っているすべてのおもちゃが入っている、大切な箱。
あるはずのないファミコンを探して、ふたりで箱の中をあさった。

家族のだれかが持ってっちゃったんじゃないかなぁ。

そう。
これなら不可抗力だ。残念!
そう言おうとした瞬間。
母がぼくらの後ろをとおりかかった。

おばちゃん、ファミコンはー?

ん?ファミコン?ウチにはそんなのないよ~。

春から夏へと移りかわるこの季節に、ひゅーん、と極寒の風がひとすじ、ぼくの首もとをかすめた。
もう、息ができなかった。
苦しい。
苦しい、のに。

あれ~?そうだったっけ。

この期に及んでぼくは。
考えられる限りの誹謗中傷を覚悟したけれど、意外にも彼の言葉はあっさりしていた。

なんだ、ないんじゃないかよー。
じゃ、仕方ないか!
またねー!

彼はそう言いのこし、去っていった。
部屋には、母とふたり。
ビンタの何発かは仕方ない。
母の方を向き目をつぶった。
けれど、意外にもたいしたお咎めは受けなかった。
嘘をついて、ごまかそうとして、失敗して。
そんなわが子を、むしろやさしいまなざしで見つめた。

何やってんの、あんた。

柔らかなトーンでそう言われた瞬間、視界が一気にぼやけた。
ぼくは、泣いた。
恥ずかしくて申し訳なくて、泣くしかなかった。
母は、それ以上何も言わなかった。

翌日、勇気を出して学校にいった。
もう嫌われてるかもしれない。
不安でいっぱいだったけれど、特に変わったこともなかった。
ファミコンをやろうと提案した彼は良くも悪くも天然で、昨日のことなど遠い昔のことだったかのように、いつもと変わらない様子で接してくれた。
昼休みには、校庭で一緒にドッヂボールをした。
それはほんとうに、何も変わらない一日だった。

嘘をついたぼくは、まるで何事もなかったかよのうに、みんなの輪の中にいた。
母も、友達も、だれもぼくを怒らなかったのだ。



記憶を掘り起こしながら書いているから、解釈は当時と若干異なるかもしれない。
でもぼくはそんなみんなの優しさにたいして、怖いと思ったことを鮮明に覚えている。
悪いことをしたのに、だれも怒らない。
それが妙に、気持ちが悪かったのだ。
ラッキーだったなんて、微塵も思わなかった。
もちろん怒られたり友達が減ったりしたらそのときはショックだっただろうし、今となってはそれもいい教訓だったと言えるのだろう。
でもおそらくは、みんなが怒らなかったということが、ぼくにそれ以上の教訓を与えたのではないかと思っている。

積極的な無関心。
小学一年生の子どもたちが意図してそんなことをするはずもないと思うけれど、当時のぼくは、それを想像した。
もちろん頭に浮かんだのは、そんな言葉ではなかったけれど。

みんなに置いてかれちゃうの、すごく怖い。

そんなふうだった気がする。

関心を持たれないことは、怒られるよりもつらいこと。
嘘をついておきながら呆れてしまうけれど、あの頃のぼくは、なぜだか冷めた目でそんな客観的な感想を抱いた。


あれから30年以上たって、あのときの教訓が活かせているかどうか考える。
細かい嘘、笑える嘘はともかく、ほんとうに人を傷つけるような嘘はついていないはずだ。
あの日の彼らには悪いことをしてしまったけれど、このことがちゃんと記憶としてのこっているということは、いい勉強をさせてもらったということなのだと思うことにして、この先にもしっかりそれを忘れずにもっていきたいと思う。


みんな、どうしてるかなぁ。
今ならちゃんと言えます。


あのときはごめんね。
変わらず友達でいてくれて、ほんとうにありがとう。








※この記事は、noteをはじめたばかりの昨年末に書いた下書きに、すこしだけ加除修正を加えたものです。







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