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お客の未来は。

先日、ハッシュタグ「お店の未来」に投稿するための記事を、2回に分けて書いた。

このときはあくまで「売る側」の視点でお店の未来を考えていたけれど、今回は「買う側」の未来について、考えていることを。
ハッシュタグ「お客の未来」。
7,000字弱。長いし、そんなの募集もされていないのだけれど、よかったらすこしお付き合いください。

(ちなみに、これから書く内容はすべてぼくの主観です。最近の流れは○○だ、など、断定的に書いている部分もありますが、あくまで実感ですので反対意見もおありかと思いますが、ご了承ください。)



そもそも「買う」ということは?

そもそも「買う」というのはどういうことなのだろう。
当たり前のことだけれどそれは、対価(おもにお金)と引き換えに、欲しい、または必要なモノやサービスを得ることだ(以下、モノとサービスをまとめてモノと呼ぶ)。

モノを買って手に入れるには、いくつかの方法がある。
店に行き、直接希望のモノを選ぶ。レジへ持って行ったり店員さんに声をかけたりして、「欲しい」の意思表示をする。
モノは、持ち帰る、送ってもらう、その場で消化する。
インターネットで注文する。「欲しい」モノは、カートに入れて決済。
モノは、送ってもらうか買う側が赴いて消費する。
電話やFAXでの注文も、一部あるかもしれない。

対価を支払う方法も、様々だ。
その場で現金払い、代引着払、クレジットカード、電子マネー、銀行口座引き落とし、振り込み。

ひと口に「買う」と言っても、モノを手に入れるまでには多くの選択肢がある。
最近はご存知の通り、キャッシュレス。
◯◯Pay、いったいどれだけあるんだろうっていうくらいに、地域により差はあれど、流れは確実に、そちらへ向かっている。


買い方の昔と今。変化したもの。

クレジットカードがあっても、ひと昔前まではスーパーやドラッグストアではなかなか使えるものではなかったから、だいたいの日常の買いものは当然現金で行う。
上で述べたように、店に行き、欲しいモノをレジに持って行ったり店員さんに声をかけたりして、「欲しい」の意思表示をする。
現金を払って、お釣りをもらって、持ち帰る。
車や自転車の場合もあるだろうけれど、一度に持ち帰れる量にも限界がある。
通販でモノを買っても、電話で購入の意思表示をし、住所や電話番号を伝えて、いつ届くかを聞かなければならない。

対して、今。
昔と変わらない部分もあるけれど、現金払いは減り、電子マネーやクレジットカード決済が増えた。
レジもスピーディーで、買いものが早くなった。
名刺サイズの紙にスタンプを押してもらっていたポイントカードはクレジットカードと一体化するようになり、最近ではスマホのアプリにもなった。
通販もネットになり、クリックすればモノが買える。配送の時間指定も支払いも、すべてクリックひとつで完結する。
当然クレジットカードで払えるから、手もとに現金はいらない。
現金は、紙幣や硬貨としてのその存在よりも、データとしての意味合いが強くなっているように思う。

買いものがより便利になったということに、異論はないだろう。
時間も短縮され、現金も大量に持ち歩かなくていい。
外にさえ、出なくてもいい。
欲しいモノは、ベッドに横になっていても、クリックすれば届くのだから。


便利になった。ということは、何かが変わった。

今とひと昔前とで買いものの仕方は大きく変わり、便利になった。
便利になったということは何かが変わったということで、それは上に述べたような買い方の多様化だったりするのだけれど、もうひとつの大きな変化は、モノを買う際に他人と触れ合う機会が減ったということだ。

ネット注文であれば、「これください」の意思表示はクリックだ。
買う。配送日時を指定する。
いずれも、PCやスマホで事足りてしまう。
受け取りでさえ、人と会わなくて済む場合もある(マンションの共用ロッカーなど)。

これは、「買う」という行為が一方通行になってしまっていると言うことはできないだろうか。
ほんらい向こうにいるはずの、「売る」人の姿が見えづらくなっている。
売る人だけではない。一緒に買いものをしている他人の姿さえも、見えづらくなってしまっている。

モノを売る、買うというのは、ほんらい最も身近な真剣勝負だと思う。
欲しいモノが、妥当な価格で買えているだろうか。
損はしていないだろうか。
値段の交渉はできるだろうか。
ひと昔前のスーパーでは、レジで都度商品の金額を手打ちしていた。
バーコードが貼られるようになりそれはほとんどなくなったけれど、何がいくらと表示される液晶の画面やレシートは、しっかり確認する必要があった。

当然レジが遅いから、混んでいるときは後ろに人がたくさん並ぶ。
だから、手もとに小銭がどれだけあるか、確認しておく。
簡単なことだけれど、さっと計算して支払い、キリのよいお釣りをもらう。
そんな他者への配慮も、毎日できるだけ気持ちよく買いものをするために必要だった(今でももちろん)。
しかしながら今は、レジで金額を伝えられてから現金を用意する人はかなり多い。電子マネーやクレジットカードでの支払いに慣れていると、とっさの計算もできない。待つことができなくなっているのに、自分が人を待たせていることには気づけない。
また、買うときに「これください」「ありがとう」が言えなくなっているとも思う。
依頼する対象や感謝を伝えるべき対象(売り手)が目の前にいないことが多いから。
レジへ持っていけば、それが購入の意思表示だ。
それは理解できるけれど、「買う」という意識が一方通行過ぎて、「売ってもらう」という意識が持てなくなってきている。
だから、「ありがとう」が言えない。
店が増えすぎた分、機械的な「ありがとうございます」が増えているせいもあるかもしれないけれど。

すこし逸れるけれど、駅の改札で、チャージ金額が足りず入出場できない人も、とても多い。
予めチャージしておけばいいだけの話なのに、それができない。
後ろでつっかえた人に、すみませんと一言添えることもできない。
それなのに当の本人は、通れなかったことに舌打ちしている。
そんな残念なシーンは、毎日至るところで見かけられる。

ほんらい人と人との真剣な関わり合いであった買いものの、結果だけが残り過程が消えかけている。
多くを学べるはずの買いもののなかから、コミュニケーションや社会勉強の余地が失われかけている。
それは、とても危険なことだとは思えないだろうか。


買い手と売り手の力関係。

価値観が多様化するということは、いろんな種類の人が増え、ライフスタイルも多様化するということだ。
一人暮らし、ひとり親家庭。核家族、三世帯家族。サラリーマン、在宅勤務、フリーランス。日本人、海外の人。
バラエティに富んだ消費者の、価値観や選択肢。
それもまたバラエティに富んでいる今、その対応はとても難しくなっている。
加えて、コンプライアンスの問題もある。
消費者を守る。
これに異論はないけれど、売る側のハードルは、ますます高くなっていく。

「お店の未来。その2。」の記事でも、今は買い手の方が圧倒的に優位だということを書いた。
客は付加価値を求め、店は多様化する客層に対し、あの手この手で体力をすり減らしながら売り上げを確保しようとする。

買い手が強い理由は、知りたいことを何でも調べることができるからだ。
多くの店の価格を比較でき、商品知識も仕入れることができる。
店員さんに訊かなくても、中立でわかりやすい知識やアドバイスがネットにはたくさん転がっている。
(あくまで他人の主観だけれど)商品やお店のレビューもある。
同じものが売っている他の店のこともわかるから、店を選ぶこともできる。

どこかで現物を見てから、ネットで買うこともできる。
そのほうが安いし、配送依頼などの手間もよりかからない。
ネットショッピングの不安要素でもある「現物を見ることができない」点も、これで解消される。

基本的には今も昔も同じことではあるけれど、店は広告を出したりセールを展開したり、客を呼び込む対策を打つことはできる。
しかしながら、やはり選ぶのは客側だ。
より広い視野からジャッジされ、店はとにかく、開けて待つしかない。


買いものに、コミュニケーションは必要か。

安いということは、買いものをするうえでとても大切な要素だ。
同じものをすこしでも安く買えるなら、それに越したことはない。

ただ、「買いものをする」という一連の行為全体を見た場合に、それはどうだろうか。
ここで買う。
この人から買う。
こんなサービス(付加価値)を受けながら買う。

慣れたお店で、知った顔のご主人と何気ない会話をしながら買う。
自分の好みを理解してくれている店員さんに、おすすめをお願いする。
機械的ではない、プロの声を聞きながら、自分に本当に必要なものを選ぶ。
ブランドものの服に身を包んで、百貨店へ赴く。

他人とコミュニケーションをとることで生まれる付加価値。
それは、買いものをするという「行為」についてくるものであって、ただ欲しいモノを手もとに置くだけでは経験することのできないものが多い。
これは、与えられるのを待つだけでは得られない、こちらから望んで手に入れる付加価値だ。

もちろん、いつでもどこでも指1本で注文できる、無料で届く、これらも立派な付加価値だ。

どちらを取るか、使い分けるか。
人により、買うものにより、それぞれ異なるだろう。
ただ、買う側(客)であっても、対価を払えばあらゆる付加価値を含めすべてを得られる保証があるわけではない。
付加価値は商品ではなくて、あくまで商品に付随する(可能性のある)プラスアルファだからだ。
生身の人間に触れる。その声に触れる。
そんな「参加型」の付加価値もあるということは、ここで念を押しておきたい(敢えて分類するとすれば、無料配送や値引などの付加価値は「条件型」の付加価値と言えると思う。もちろんどちらが一方ということではなく、ひとつの買いものに両方の付加価値が伴うこともある)。

一概に価格だけで買い方や店を選ぶということは、このように得られたかもしれなかった付加価値を逸してしまうリスクがある。
「買いものをする」という行為は、自分の欲求の昇華でもある。
大きな額になればなるほどその行為は特別な経験となり、その後の人生にさえ影響を及ぼす可能性もあるだろう。
家やクルマはその最たるものかもしれないけれど、より現実的な買いものにも十分に人生の経験値を積むことができる余地はある。

信頼できる店や人に相談し、適切な言葉遣いや好ましい雰囲気で対応してもらう。
自分だけては調べきれなかった知識や気づきを得る。
あるいは、客として丁重な扱いを受けることで、自尊心や承認欲求を満たすこともできる。

買いものにコミュニケーションは必要か。
これはどちらが正しいかという問題ではない。
しかしながら、買いものをする際に店や買い方を選択する上では、決して無視できない要素のひとつだ。
価格や利便性を考えた選択は確かに多いかもしれないけれど、このような選び方もあるということも、こころに留めておくべきだと思う。


それでは、これからの客と店の在り方は。

「お店の未来は。その2。」でも述べたように、これからのお店はより細かくなり、それぞれの世界観を明確にしていく。
店の雰囲気、店主の姿勢。
これらがそのブランド性を担保していくことになる。
ということは、店も客を選ぶようになるのだ。

お店の世界観を守るということは、客に媚びないということだ。
お店の世界観に合わない客には、無理に合わせる必要はない。
もちろんお店から喧嘩を売ることはないけれど、ときには毅然とした態度もとるべきだ。
万人にへつらうことはしない。
みんなウェルカムじゃなくていい。
守るべき人たちを、しっかり守る。
その姿勢が、新たに客を呼ぶ。
それは信頼という名の付加価値であり、客側にとっても、自分に合う世界観を見つけることに役立つはずだ。

客の多様化に、店は懸命に合わせてきた。
今度は、客が店に合わせる番だ。

消費者保護の観点からも、今は買い手が圧倒的に有利だ。
それを否定する気はないけれど、大げさなクレームや過度で理不尽な要求には、これまでのように売り手はあまり耳を貸さなくなっていくと思う。
SNSで騒ぎ立てようと、怒鳴りこもうと同じ。
その流れは加速するように思う。

理由はふたつある。
ひとつは、店が細かくなるため、あらゆる対応を少人数で行う必要があるからだ。
単純に手が足りないし、店の世界観を重要視するため、すべての客を取り込もうとは思っていない。
残念だけれど、合わなければ仕方がないと、正当なクレーム以外は排除されるようになるだろう。
ふたつめは、労働環境の見直しが進んでいることだ。
24時間営業のコンビニエンスストアが減っているのはニュースなどでも目にする機会が多いけれど、その他の業態でもこの流れは加速すると思う。
従業員のケア、確保。これはどの業態でも喫緊の課題であり、企業の死活問題でもある。
人手不足が蔓延する中で、客よりも身内を大切にする流れに傾いていくはずだ。

買いものの仕方の変化はもう止まらないし、その流れはこれからもより加速していくだろう。
そこでは売り手と買い手、お互いの顔が見えず、もともとあったコミュニケーションがその薄さを増していき、買いものは、ただのモノとお金の交換になっていく。


だからこそ、大切なこと。

現場でもネットでも、買いものはほんらい双方向のコミュニケーションであって、お互いの立場に優劣はない。
お互いに敬意を持ち、お互いを尊重して、その上でモノとお金の交換があるということだ。
客は、モノを買うという絶対的な権限があると錯覚してはいけない。
店は、客の期待に全力で答える姿勢を忘れてはいけない。
お互いに、平等なのだ。
それができれば、店はより良い商品を提供することができるようになる。
客は、ファンを通り越してサポーターになる。
SNSの発達により、店と客との距離はどんどん縮まっている。
お互いの平等性が認識できたときはじめて、SNSはポジティブに活用できるツールとなり、お互いの関係性をより深めていくことに貢献していくのだと思う。

買いものという行為は、あくまで客の意思によってはじまるものだ。
だからこそ、買いものはコミュニケーションであるという認識を、現場でもネットでも忘れてはいけない。
店はその質の向上を客に求めることはできないから。
お互いの平等性を意識して、客側からの意識の向上を促したい。

お客の未来は。
それは、客側がお互いの平等性に気づくことで、より明るくなる。
客個人と店との対等なパートナーシップ。
それが実現することで、お互い笑える未来が待っていると、ぼくは信じたいと思う。





おわりに。

本日は、長い長い記事にお付き合いいただきほんとうにありがとうございました。
先日「お店の未来」の記事を2回に分けて投稿し、多くの方に読んでいただくことができました。ありがとうございます。
こちらも2回に分けるべきかとも思いましたが、内容も空気も文字数も、ここでは様々にチャレンジしたいと思っており、長いのは承知でしたが、ひとつにまとめて投稿しました。

書いているうちに気づいたのですが、客と店としてしまうと何だか他人行儀で立場の上下みたいなものが自然と出てしまう気がするのですが、買いものもコミュニケーションである以上、人と人、というふうに考えれば、お互いが認め合って共存していこうというのはむしろ当たり前のことなのではないかと思います。
お金が絡むことなので一概には言えませんが、もっとシンプルに考えてもいいことなのではないかと、ここにきて感じています。

みなさんも毎日の中で、ある場面では何かを売り、またある場面では何かを買っていると思います。
おれはずっと客でしかない!とか、わたしはモノを売ったことしかありません!みたいな人はそうそういないはずです。
ということは、どちらの立場の苦労も喜びも、ほんとうはみんなわかっている。

相手の立場に立って考えましょう。
ここまで文字数を費やさなくても、言いたいことはこれだったのかもしれません。
筋道立てて考えを述べていくという作業を長いことしていませんでしたので、途中よくわからない箇所や中だるみがあったかもしれません。
それでもここまでお付き合いいただけたみなさんは、きっとこのテーマに関心があって、売り手としても買い手としても、立派な気づかいのできる方々だと思います。

もう一度言いますが、お付き合いいただきほんとうにありがとうございます。
お店の未来。お客の未来。
みんなで明るいものに、していきませんか。


また機会があったらしっかりテーマを決めて書きたいと思います。
そのときは、懲りずにお付き合いいただけたら幸いです。

ほんとうにありがとうございました。






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