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noteで1番緊張するのは。

noteで1番緊張するのはどんなときだろうか。

投稿ボタンを押すとき。
誰かをフォローするとき。
ふらりと訪れたnoteにスキをするとき。

これらもたしかに緊張する。
投稿ボタンを押すときは特に。
ほんとうにこれでいいのかなぁ。
大丈夫かなぁ。
という問いを、いったい何回繰りかえすのだろうと思う。
フォローさせていただくときや、Twitter経由でお邪魔してスキを置いていくときも。
こいつ誰やねんと思われないかと不安になる。


ただ。
今日の答えはそうではなくて。
もちろん人によるだろうけれど、それでもこれはだいたい共感してもらえるのではないかと思っている。

noteで1番緊張するとき。
それは、


コメントを残すとき


だと思う。

どうだろう。
共感していただけるだろうか。
今のぼくにとって、これがnoteで1番緊張するときだ。


noterさんの言いたいことを、ちゃんと理解できているだろうか。
的はずれなコメントになっていないだろうか。

それを考えすぎてしまって、二の足を踏むことがある。
自分がコメントをいただいたときの気持ちを考えてみれば、そんな心配はいらないんだよってすぐにわかりそうなものなのだけれど。

だって、ほんとうにうれしい。
自分のnoteを大切に扱っていただいている気がするし、そのために時間を割いていただけたことがありがたい。

書いている人はきっと、みんなそのありがたみをわかっていると思う。

自分のnoteに、立ち止まってくれた。
自分の考えにたいして思うことを、言葉にして伝えてくれた。

それはとても、尊いことなのに。


逆に、だからこそ、なのかもしれない。
ぼくがそうしてうれしい気持ちになるから、みんなにもそういう気持ちになってほしい。
だから、ヘタなことは言えない。
だから、二の足を踏んでしまう。
でもそれって、結局この前の反省と同じだ。
仮に相手に喜んでもらえそうなコメントを選んで残したところで、その言葉はただただ虚しく響く。
そしてそれは、その作品を尊重しないということにもつながってしまう。
誓ってそんなことは、したことないけれど。

ちゃんとコメントさせていただきたいな、と思うとき、だから時間がかかる。
読ませていただいて、時間をおいて、考える。
また読んで、コメント欄に行って、書いて、消して。
あげく、
伝えたいのに、んー、もうムリ!
となって、こっそりスキだけ置いていく。
みたいなこともある。
自分のnoteを書くときよりも、はるかに緊張する。
気軽に遊びに来てね!と自分では言っているのになぁ。


作品の独自性は、多くの人がその作品に触れることによって、徐々に公共性を増していく。
音楽も、絵画も、文章も。
世に出たその瞬間から、それは自分の手もとを離れ、みんなのこころにすこしずつ形を変えて、染み込んでいく。
解釈とか印象とかっていう言葉で表されるそれは、ごく当たり前のことだ。
でもそうやってこの街のみんなはつながって、共有して、影響しあって、それぞれのしあわせを追求していくわけだから、その流れそれ自体は、ほんとうにすばらしいことなのだと思う。

だからぼくも、そのすばらしい流れを乱さないように気をつけなければならない。
丁寧な言葉で、感じたことを、素直に。
いつも同じことを言っている気がするけれど、何度こころがけたって無駄ではない。
より深いつながりを感じられるように、ぼくも自分の考えていることをできるだけ丁寧に形にして、届けていきたいなぁと思う。
自分の投稿でも、コメントでも。



ふぅ、今日も何とか書きあげた。



そう思ったところで、気づいてしまった。



これって最初から、この街の標語になってるよね。



つくる、つながる、とどける。



一本取られたなぁ、って思ってしまった。






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