父親との思い出#2

子供の頃の父親との思い出はほぼ野球のこと。それ以外は本当に少ししかない。
まぁ本当に家にいる時間が少なかったので仕方がないと思う。

大人に近づいてからはちょこちょこある。
高校2年の頃、いよいよ受験が現実的に近づいてきていた頃に、母親から話を聞いて「親父すげえ」って思ったことは今でも鮮明に覚えている。

僕は大阪府の交野市(かたのし)というところで育った。
大阪の枚方市と寝屋川市、四條畷市と奈良県、京都府に囲まれた大阪府の東北の方角の端っこにある街。
今でこそ大阪市郊外のベッドタウンといったポジションなのだが、それでも大阪府民ですら「どこそれ?」っていう人も多いマイナーな街。
僕が子供のころはクソ田舎で、街というよりは村や町といったほうがしっくりくる。大人になってもずっと出身地は「交野っていう枚方の隣のところ」とか、もう説明が面倒で「枚方」と答えていたこともあるくらいマイナーなところ。
僕が小学校低学年の頃までは、自宅の前は田んぼだったし、道も砂利道だった。
小学校ではたまに野猿が出たし、幼稚園の頃には家の中に野リスが入ってきたこともある。
それくらいのクソ田舎に父親は小学校高学年の頃に引っ越してきた。
その頃はもう想像もつかないくらいの超絶田舎だったと思う。

そこで小学校、中学校で学んだ父親は高校から東京に行くという選択をしたらしい。
「このままここで勉強していても日本の都会の人たちと差が開く一方だ」と考え、東京の某MARCH付属高校を受験し、結局高校〜大学の期間を東京の親戚宅に下宿して過ごした。
これを高校2年の頃に初めて母親から聞かさせて本当にびっくりした。
高校から親元を離れて東京に行くという考えすら全く持ち合わせてなかったというか、1秒もそんなことを考えたことがなかった。
野球留学は当時からあったし、それは考えもしたけど、勉強が理由で高校から親元を離れるって。。。

そんなことを考えていたやつも僕の同学年にいなかったし、当然ながら実行したヤツも一人もいなかった。
それを親父が中学生だった頃に考え、実際に実行に移したことはただただ尊敬しかない。今でいう意識高い系だったのかも知れない。
「うちの親父ヤバいな」と初めて思ったのがこの時だった。

そして青春時代の大半を東京で過ごしたうちの父親は、言葉こそ関西弁を話すけど、中身は結構関東の人だったように思う。

野球が好きだったけど、贔屓の球団は巨人。
初めて連れて行ってもらった甲子園の試合は阪神 vs 巨人
当然ながら三塁側だった。
ネイティブ関西人の僕は阪神ファン。
三塁側で一生懸命声が枯れるほど阪神の応援をして、近くの席に座っていた阪神ファンのおっちゃんに「一生懸命応援してえらいぞボウズ!」とジュース奢ってもらったのを今でも覚えてる。

そんなこんなで子供の頃はなんとも思わなかったけど、大人になるにつれ、「この人すごい」とか「ヤバい」と感じることが多くなっていった。

まだしばらく続く予定です。






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