父親との思い出#1

先週金曜日に父親が亡くなってから、父親との思い出を色々と思い浮かべるようになった。
けど、「これ!!!」というような象徴的な思い出というのは実はそこまで多くはない。まぁ家族との思い出とはそんなものなのかも知れないけど。

なぜそんなにシンボリックな思い出が少ないかというと、とにかく働く人だったから。
僕が物心がついてから大学に行くくらいまで、平日に顔を合わせた記憶はほとんどない。
そういう時代だったと言えばそれまでだけど、父親は父親でやっぱり大変だったんだと思う。

父親は僕の祖父(父親の父親)が戦後に起こした会社(製造業)の2代目だった。
僕が物心ついた時には祖父の会社の役員だったかすかな記憶があるので、少しずつ継ぐ準備はしていたのだとは思う。
けど、そんな準備をしている最中に祖父が突然倒れ、30代後半で父は祖父の会社を強制的に継ぐことになった。
当然ながら万全な引き継ぎは出来ていなかったはず。
そこから会社の代表として、事業を引き継ぎ、拡大させていくには間違いなく相当な苦労があったと思う。
日本国内のみならず、海外を含めて色々な場所を飛び回っていた。
休みの日は取引先の人とゴルフが定番。
よく働く人というよりは、よく働かざる得なかった人という言い方が正しいのかも知れない。

会社自体は祖父が築いた基盤と父親の努力があり、順調に成長していっていたと思う。おかげで兄妹4人、何不自由無く生活し、僕と弟は大学まで出させてくれた。
だけど、家族での思い出というとそんなに多くない。
子供の頃に家族みんなで旅行に行ったのは2回のみ。
両方とも1泊2日の白浜旅行。その2回の白浜は猛烈に楽しかったのを覚えている。今でも白浜に行くとその頃のことを思い出す。

とにかく普段父親が家に居るという印象がなくて、小学生の頃は夏休みの終わりくらいの日曜日に家族みんなで夜の生駒山上遊園地に連れて行ってもらうことが夏休みの一番の楽しみだった。
あとは家でやる花火。小さい頃に家族みんなで一緒に何かをしたという思い出は本当にこれくらい。
さすがにお正月は家に居たけれど、1月2日からは会社関係の人が新年の挨拶に来てたし、お正月に会社の人や取引先の人を10人くらい呼んで徹夜で麻雀をするというのがうちの家のお正月の恒例行事だった。
おかげでお年玉は色んな人からたくさんもらえたw

そんな父だが、野球だけは違った。
僕が小学校2年生の春に「野球を習いに行け」とリトルリーグに入れられた。
野球のことなんてほとんど知らず、やったこともなかった6才児が初めて握ったボールが硬式球。(それはそれで変な恐怖や先入観がなくて良かったと思ってる)
そこから中学生になってシニアリーグに上がり、高校でも野球部に入り、結局小学校2年から高校3年まで10年間野球をやった。

そして父親は僕の野球の練習や試合をよく見に来てくれた。
さすがに毎週は無理だったけど、特に試合のときはスケジュールを調整して出来る限り見に来てくれた。小学生の頃も、中学生の頃も、高校生の頃も、とにかく時間を作って短い時間でも出来るだけ見に来てくれた。
野球の技術的なアドバイスをしてもらったことはなかったし、キャッチボールをした記憶も一度くらいしかないけど、父親が見に来てくれることは純粋に嬉しかった。

母親に聞いた話だと、父親も小さい頃野球をやりたかったんだけど、祖母(父親のお母さん)がかなり教育に厳しい人でやらせてもらえなかったそう。
だから男の子が生まれたらやらせたいと考えていたみたい。
結果、長男の僕がほぼ強制的にやらされたのだろう。
けど僕も野球をやって本当に良かったなーって思ってる。

あまり親孝行は出来たと思っていないけど、野球を通じて嬉しいこと悔しいことなど色々な思いを親子で10年間共有出来たことは1つの親孝行と言っても良いのかなぁと思ってます。

まだまだ続く




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