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親と遊ぶのがこんなに楽しくていいのか(31歳)

両親と遊ぶのが楽しい。こんなに楽しくていいのかと不安になるので、その気持ちを書き出してみた。



片道10時間のドライブが毎秒楽しいってことある?

両親と3人で車で四国に旅行に行った。片道10時間もかかるので、たぶん飽きたり、話題が尽きたりするのだろうけど、まあそれもそんなに気まずくないでしょうと思っていた。甘かった。飽きもしないし話題も尽きなかった。楽しいなと毎秒思っていたらそれが積み重なって10時間経っていた。えっもう静岡?と思っていたら、すぐ大阪になって、あっという間に鳴門海峡だった。帰りはその逆だった。体感2時間くらい。こわすぎる。
具体的に何が楽しかったかというと、父のいびきが全部のドライブソングと調和できる小粋な楽器だということを母と発見したり、母が歩道を散歩している犬を見つけて「いぬだ!!!かわいい!!!!!」と叫んだら車の窓が空いていて飼い主のお姉さんが会釈してくれたり、父が運転席から「あ、いろんな大きさの石だ」と呟いた方を見たらこれ以上ないほどいろんな大きさの石が積んであったりした。

いろんな大きさの石の写真(小・大・中)


クリスマスだって本当は家族といたいかも

思えば昔から家で家族と過ごすのが楽しかった。
高校生や大学生の頃も、クリスマスは恋人と過ごしたり、みんなで遊んだりするより、お家で家族とあったかくしてチキンやケーキを食べたりしたかった。そういうのが寂しいとか満たされないとかは思ったことはない。恋人も友達もみんな好きだけれど、いちばんクリスマスという感じがするから家族と家にいたい。


なんで親と遊ぶのが楽しすぎるとこわいのか

うちの両親は私に甘い。ほとんど無条件で受け入れてくれる。タトゥーを入れると言ったときも、事実婚にすると言ったときも、なんか言っていた気もするが受け入れてくれた。この「なんか言っていた気もする」というところが大事で、両親の意見に従わないといけないという気持ちが私の中にないということだと思う。従わなくて見捨てられたり、両親がつらそうだったりしたことがなかったからじゃないか。子どもにとって親に見捨てられることや、親の健康を損ねることは自分の身体の危険や未来の封鎖を意味する部分がある。そういうものを感じたことがないから、両親の意見をただの意見として聞けるのだ。そもそも、彼女たちは「自分たちは反対も賛成もする立場にない 自分のことはあなたが選ぶのだ」という基本的な思想を持っているように感じる。自分が感じたいように感じているだけで、実はふたりはそんなこと全然思っていないかもしれないけれど。

そんな両親と遊ぶのが楽しいというのは、無条件受入人間(むじょうけんうけいれにんげん)と関わるのが楽しいということだろうか。自分に甘くて、大事にしてくれることが分かりきっていて、今更嫌われないから、維持にコストがかからない人間関係だから、楽しいのか。ちょっと嫌な感じがする。
何が嫌かというと、以下のことが思いつく。
①一方的な負担を強いているかもしれないこと
②必要な敬意を払っていないかもしれないこと
③ベネフィットではなくコストの大小で人間関係を評価しているかもしれないこと
①②はそうしないように気をつけるとして、③はそもそもそんなことないかも。なぜなら、ふたりがかなり愉快な人間だからだ。コストが少ないだけではなくて、ベネフィットがとても大きい。そうだ、じゃあいいか。


自分で選んでない人間関係なのに

私はわがままで未熟なので、自分のことは自分で決めたいし、選んでいない、納得できないものは基本的に受け入れられない。でも、もしも、ふたりが親ではなくて、学校の同級生や会社の同僚だったとしても、私はふたりが好きだったと思うし、ふたりさえよければ仲良くなりたい。それってすごいことだ。親は親という役割を望んで実現したというだけのただの人間だから、気が合うのはハイパーラッキーだ。


※両親には記事の作成と掲載の許可をもらった。

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