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わたしたちの関係に名前をつけないで

紹介されるときやするときに、友達とか、恋人とかの単語を使われたり使ったりすると、そうかそういう名前の関係だったね、と思うことがたまにある。それがなんだかつまらないので、その理由を書いてみる。



あなたとの思い出なのに

特定の誰か(例えばあの人)との関係があって、その関係性を過不足なく表す言葉があるだろうか。
飲んだ帰りにお腹が空いてふたりでコンビニでカップ麺を買って公園で食べた夜。カフェでお互いのことを話していたらふたりとも泣いてしまったとき。体育祭の結果に納得できなくてたくさん歩いて海まで行ったところで保護者に捕獲された朝。話したいことをためていたら100を超えたLINEのノート。一緒に開けようねと言ったピアス。猛毒のウミヘビに追われつつ溺れて死にそうになった海。
「恋人との」でも、「友達との」でも、「家族との」でもなくて、ただその人との思い出だ。


関係性を言葉にすると足りないし余る

無理に既存の言葉を当てはめて関係性に名前をつけると、実際のふたりから少しはみ出たり、余ったりする気がする。その過不足の分だけ、相手に求めたり、遠慮したりしてしまう。恋人なんだからこうしてほしい、友達なのにここまで踏み込んでいいのか、そんなの本当にばかみたいだ。魂で感じるその人との関係をふたりで作っていこうよ!という姿勢と思想を持っている。
だから、恋人になろうとか、友達になろうとか、家族を作ろうとか言われると、それって何?と思う。つまりどういう意味か、あなたの言葉で説明してみせて。私も説明してみるから、一緒に考えようよ。それで便宜上、友達とか恋人とか使ってみるのはどうだろう。


好きなひとがたくさんいる

私には好きな人がたくさんいる。その気持ちは一人一人に対して全部違っていて、これが友情とかあれが恋愛感情とか分類できない。みんなどうやって区別しているのだろう。性欲があったら恋愛感情で、そうでなければ友情とか?人によって定義は違うはずなのに、同じものという前提で話が進んでいくのがなんだか許せない。
私の中には全員のイスがあって、誰も同じイスを取り合ったりはしていない。好きな人たちはみんなのことが大好きで、みんなのことがそれぞれ特別だ。これは自分に言い聞かせながら生きていかないと、普通こうだよね、に押し流されそうになるので、ここでも宣言する気持ちでこの文章を書いた。



好きなひとたちについて


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