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夜の香りで言語の限界を知る。

その日はなんとなく気持ちが塞ぎ込んでいて、生気のない目でスマホの画面を眺める時間を無為に過ごしていた。時刻は21時を回った頃。なんとなく小腹が空いてきたのはそのときだった。

外に出るのが面倒な理由はただ一つ、そのための準備が億劫だからだ。人に会える姿になるにはそれなりの手間と気苦労がいる。しかし幸い今は、大学から帰ってきたままの格好でベッドに横になっている。この時間から自炊をする気は起こらない。コンビニに行こう、と気だるげな頭がぼんやり呟いた。

髪を梳かして雑に束ね、エコバッグに財布と家の鍵だけを放り込んでドアを開けた。


瞬間、あ、夜の匂いだ、と思った。
昼間の熱を残したままの生ぬるい空気。ゆるく秋風が通り過ぎていく。その風に乗って、息を潜めたような夜独特の香りが鼻をくすぐるのだ。なんの香りなのかはわからない、甘いような、苦いような、ふわっとしたような、ぬるっとしたような、なんとも言えない不思議な香り。

香りと言うべきか、匂いと言うべきかも迷いどころだ。香りと言えるほど上品な感じもしなければ、匂いと言えるほどありふれているわけでもない。どこか野性的だけれど、決して臭いではない。けれど人によっては臭いと形容できるのかもしれない、私は好きなのだけれど。

秋といえば金木犀の香りらしい。普段の移動が自転車だと、いくら香りが強くても一瞬で通り過ぎてしまうから気づきにくい。その上身近な場所には銀杏の雌株ばかりが植わっていて、私にとっての秋の香り、いや臭いは、金木犀のようなお洒落な香りからは程遠いものなのだった。

だから、私が秋の香りを情緒的に感じることができるのは夜なのだ。秋の夜長の空気が含む、夏の湿り気を残しつつもこれから訪れる季節も漂わせるしんとした香り。虫たちの鳴き声とも相まって、夜が一番しんみりと秋を感じられる。


ああ、それにしても、この夜の香りをうまく表現できる言葉が見つからない。

私が語彙力に乏しいというのもあるけれど、人の感覚の数に対して、この世の言語はあまりにも足りない。言葉は無限だと言うけれど、今もこうして夜の香りをうまく説明できずに悶々とする私がいる。現に夜の香りを率直に表す言葉は、少なくとも日本語には存在しないのだ。

だけれども、だからこそ。人は比喩という技を駆使し、時に例え話を混ぜ込みながら、自分の感じたものをできるだけ感じたままに他人と共有しようとするのだろう。

全ての感覚を表現できる言葉で世の中が事足りていたとしたら、表現の可能性は有限になる。この世の言葉が足りないおかげで物語が生まれ、痺れるほどの比喩が生まれる。不思議だ、人類は進化し続けているというのに、もはやこれで充分なのではないかと思えてしまう。


今渡ったばかりの踏切がカンカンと音を鳴らす。自転車を路肩に停め、ずうっと上を見上げながら誰かと通話している人がいた。彼につられて視線を上げてみると、そこには雲の切れ間に広がる星空。

この気持ちを表現するための言葉は、当分なくてもいいはずだ。


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