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そのうち灯りは消えるし、私の息も切れるので

金曜休み、私は何もしないことにした。

ぷっつりと糸が切れてしまったのは、その前日の晩のことだった。いつものように仕事を終え、いつものように二人で夕食を作って食べ、「今日は当たりやな」とほくほくしながら膨れたお腹をさすり、いつものようにお風呂に入ろうとした矢先に猛烈な睡魔に襲われた。
糸が切れたようにという比喩は本当によく言ったもので、それまで張りつめていた何かが突然、音もなく緩んでしまったのだった。

そういえばここのところ、生理前でもないのに不安定な気持ちになることが多かったなと思い返す。ふっと切れるのは突然でも、身体と心はじわじわと追い詰められていたのだろう。しかしいざこういうことが起こるまでは、些細な違和感に目を向けることもできないのが常だ。


心が閉鎖しつつあった。大切にしたいものを大切にできない、あんなに愛おしかったものを愛せない。

その日の夜は一人で眠った。なんだか隣に人がいるだけで、無性に気が立ってしまう。こういうとき、大事な人に限ってチクチク当たってしまうのをやめたい。

3月にここへ来て、4月からは全く新しい生活が始まった。思っていたよりも平気だったのは事実だ。その一方で、たぶん、「私は大丈夫だ」と思い込もうとしていたところもあった。慣れない刺激の連続に疲れないはずがないのに、それすらも見て見ぬふりをしていた。本当はずっと、私なりに気を張っていたんだと思う。

思い返せば、ここ1ヶ月は家で一人になることがほとんどなかった。実際、化粧をしなかった日が思い当たらない。彼が出かけていれば私も出かけるし、そうでなくともほとんど毎日外に出ていた。その結果、自分の限界値を超える事態になってしまったらしい。

ため息をつく。大人にもなって、社会人にもなって、情けないったらありゃしない。

何もしない日をつくろうと、心に決めた。自分の不調を取り戻せるのは自分しかいないのだ。


大学時代にはわざわざ設けずとも勝手に生まれていた、何もしない日。金曜休みを利用して、私はとにかく「何もしない」をした。

真の華金とは完全休みの金曜日だと思う。ただリズムが崩れてはいけないから、朝には一旦起きて彼を見送った。それからはのっそり食パンをかじり、ぼんやりしているうちに眠くなってくる。結局、お昼を大きく上回ってすっかり眠ってしまった。これぞ華金。

目を覚ますと、ぽかぽかとうららかな日差しが窓から差し込んでいた。まさにお散歩日和だけれど、今日の私はこの家から一歩も出てやらない。しかしお散歩日和はお昼寝日和でもある。春の光に包まれたまま、しばらくうつらうつらしていた。何もしない日というよりは、寝るをする日の方が適切かもしれない。

そうこうしているうちに、あっという間に夕方がやってきた。身体はまだ少し重たいけれど、塞ぎ込んでいた心は確かに扉を開けはじめている。彼が帰ってくるのが待ち遠しくなって、何もしないと決めたくせに乾いた洗濯物をいそいそと取り込んでしまう。


昨日までイライラしていたのが嘘みたいに、ねこはかわいいし、好きな人には会いたいし、明日行きたい場所のことを考えてしまう。

そうして無理が重なった結果が今なのに、やりたいことが次々と浮かんでくる。けれど調子がよくなければ、何かがしたい、という気持ちすら消え失せてしまうのだ。つまり逆に言えば、私はちゃんと復活を遂げつつあるということ。

昨日はあんなに冷たく当たってしまったけれど、今夜は笑顔で迎えることができそうだ。綺麗に洗われた洗濯物たちが、礼儀正しくそこに並んでいた。


ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。