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「愛してる」がなくったって

推しを推す以上、我々は弁えるべきだと思う。

アイドルのような天上人だけでなく、身近なコミュニティに推しを作ってしまう私が悪いのだけれど、私は推しに猛アタックしすぎて失敗したことがある。
私があまりにも熱烈に愛を伝えすぎたせいで、推し(以下推し①とする)の方が私に恋愛的な好意を抱いてしまったのだ。違う、そういうんじゃない、と言いたくなったときには時すでに遅し、彼との間でとろとろと生まれた恋のはじまりから逃げ出せなくなった。

私は基本的に、推しと恋愛は切り離すタイプだ。推しは推しだから推しなのであって、そこに恋愛感情を挟んでしまったら終わりだと思っている。しかしこうなってしまっては私も本気で好きになるしかないのではと悩んだのだけれど、やはり推しは推しでしかなく、感情の整理はつかなかった。

推し①がただの推しであった当時、私は「愛してるぞ推し①ー!!」と雄叫びを上げていた。こういう場合、私の「愛してる」はある意味で軽い。愛してるは本音ではあるけれど、本来の言葉が持つほどの重みはないというか、愛してはいるんだけど結婚したいとか恋愛したいとかいうのとは違って、私はただただ「愛してる」という言葉で、相手の存在を全力で肯定したかっただけなのだ。まあ、特に男性諸君には理解していただけない感情なのかもしれない。

過去いろいろあったりなかったりした男たちに未練は残さないけれど、彼にだけは罪悪感を抱いており、時折自らの愚行を思い出しては発狂しそうになる。本当に申し訳ないことをした。かといって、その責任をとれるほど当時の私も大人ではなかった。彼とは徐々に距離を置き連絡をほとんど絶ってしまったけれど、あれは苦い思い出として、私の心に燻っている。

この事件から私は「推しには必要以上に近づくべからず」という教訓を得た。推しが推しである以上、一定の距離を保ち引かれた線の向こう側でうちわを振って推すに限るのだ。勘違いさせてはならない、近づいても、ましてや触れてもいけない。つまり弁えろ、ということである。


一方で私にはもう一人、細心の注意を払って距離を保ち続けた推しがいた(以下推し②とする)。吹奏楽団の同期だったので正直普通にもっと仲良くなりたかったんだけど、私自身が聖域に足を踏み入れることを良しとしなかった。

だから、推し②を含めた少人数で酒を酌み交わすという、最もお近づきになれるタイミングが訪れたのも大学を卒業してからのことだった。私はそこでも彼とサシでは話せないよう、テーブルの対角線上の位置を陣取った。我ながらド紳士である。ドジェントルマン。レディーだけど。

ところが会の途中で学生時代の思い出話に花を咲かせていたとき、学指揮をしていた推し②が、「まうちゃんはね……あんまり話す機会とかなかったけど、指揮振ってるときに真っすぐな目で見つめ返したり頷いたりしてくれてて、ああ、ちゃんと通じてるんだな、って自信になってたよ」とそれはもう酔っ払ったべろべろの声で、しみじみと語ってくれたのだった。

そう、私は、これになりたかった。推しに近しい存在にはならないけれど、遠くからガッチリしっかり肯定できるような、例えば推しが希望を見失ったとき、でもまあ人生悪いことばかりじゃなかったよな、という気持ちにさせられるくらいの存在でありたかった。「愛してる」と叫ばなくても、相手への全肯定の心を伝えることはできたのだ。

推し②との直接的な思い出はおそらくそれぐらいしかないけれど、私は大変満足している。推す側と推される側の清き関係を守り抜き、のみならず推しにとって少しでもプラスになるものを与えられたのなら、それだけでオタク冥利に尽きるというものだ。

推しを推すとは、本来そうあるべきなのだ、と思う。

根っこがオタクである以上推し活をやめることはできないだろうけれど、今後も分を弁え、清く正しい推し活をすることをここに誓う。嫁入り前に供養したかった、私と推し(?)の話。


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