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大学へ行く行かないの話

え?なに?そこ?
なんて思った方、
安心してください。音楽の話もしますから。
多分(笑)

来春に向けて進路を決めるという
高校生諸君!


って一度行ってみたかった笑
ってのはさておき、
高校2年くらいになってくると
だんだん進路を迫られてくるのは
今も昔も同じなのかな?

この大学でこれを学んで、
こういう仕事に就きたいとか、
大学へは行かずこういう道に進むべく
頑張っていきたいなんて
しっかりと進路が決まっている人は良いが

ほとんどの人がさて大学に行こうか?
専門学校に行こうか?
早く社会に出たいので仕事の道に進もうか?
なんて悩んでいる人が多いのではないだろうか?


かくいう僕も、

そのくらいの世代の時は
それまで、
年が上だというだけでリスペクトしなくては
ならない部活というものに疑問があって
運動部には入らず、チャラチャラして
高校に進学するもこの体型から
強制的にラグビー部に入部させられたものの
やっぱり違和感がありすぐに退部(笑)
そこへバンドブームが来て、
なんとなくやってみたかったバンドを始めて
そこで初めてドラムを始めました。

とにかくクラスのほとんどがそこで
何らかの楽器やボーカルを始めてたのもあり、
これはやっと自分がやりたいというものに
出会ったなと思ったのでした。

と同時にその頃、ディスコではなく
クラブというものがあるという事が話題になってきて、
業界人やモデルさんなどおしゃれな人たちが
夜な夜な集まってDJがプレイするMUSICで
踊ったりしているなんて情報をつかみ、
初めて連れてってもらったのが
オールジャンルのイベントで
PUNKロックに目覚めていた自分にとって
クラブという場所でそのPUNKロックが流れていて
ステージではなくDJがプレイするそれに
皆が狂ったように踊っているのに触れ
そこからクラブというものにも目覚めていくのですが、

今考えると笑ってしまうが、
思春期ですから、その頃は親をはじめ世間の
大人に対してどうしようもない怒りみたいのがあって
そういうのを発散したり訴えたりできるという意味でも
合致したのかもしれません。

そうなると、
バンドで一発当てて売れてやる!
なんてことになるわけですよ(笑)

そこで進路の話に戻りますが、
もちろん両親は薬店を継いで欲しいわけですから
猛反対ですよ。
そんなもんで食えるわけがないと。

で、17歳の時に親戚のツテをたどって、
のちに師匠となるJAZZドラマーの小針氏の元に
両親に無理やり連れていかれたのです。

両親としては、
プロに演奏を聴かせてダメだしを食らえば
本人も今の力量を把握して
プロになるなんてことを諦めるんじゃないかという
思惑があったと思うのですが、
なんと、その小針氏は
これはちゃんと練習していけば
良いとこまでいけるかもしれないと
逆に両親を説得してくれたのです。

そこから半ボウヤ的なこともやりつつ
毎週レッスンに通いました。

ただ、じゃあ、高校でたらどうするのか?

両親としては
とりあえずプロになりたいということは
わかったと。
ただ、その夢が崩れた場合のことも考えて
とりあえず大学だけは行ってくれと
切願されたのですが、
その時はなんとなく
将来の保険のために大学へ行くということに
すごく違和感を感じていて
さらに師匠からはプロになるんだったら
アメリカの音楽大学に留学した方が良いとも
言われてて両親にも伝えててくれたのですが、
半年は英語の勉強をしてそこから大学に、
留学なのでその間はアルバイトもできず?
生活費も仕送りしてもらってみたいなことで、
そんなお金はない!と両親は反対、
まあ、正直僕自身も、別にそこまでしなくても
いけるっしょ!(笑) みたいな
よくわからない自信もあったので、
そのまま3年あたりになりとうとうしっかりと
卒業後の進路を決めないといけないという時期になって、
友人が行くと行ってたエンジニアなどを養成する
音響技術専門学校の話を聞いて
これだ!と(笑)

バンドをやる上でそういった技術も勉強しておけば
良いよねみたいな感じで両親を説得、
なんとかその専門学校に入学したのでありました。

ただ、、自分がやりたいのはエンジニアではなく
演奏なんですよね。
しかも、そういった専門学校だから
当時行ってたクラブにくるような
おしゃれな人もいるかななんて期待とは
裏腹に地方から出てきたような地味な人しかいなく(失礼)
ほとんど勉強もせず、学校自体もあまり行かなくなるようになり、、
1年も経たないうちに当時通っていた
某クラブにアルバイトとして入店、
まあ、クラブですから余計専門学校からは足は遠のいて行ったわけです(笑)

おかげで、そこでいろいろな音楽にも出会えたし、
いろいろな人とも知り合えることはできたのですが、
結局専門学校ではほぼ学ばず、、
卒業試験はレコーディングだったのですが、
自分は演奏する方になり何とか卒業。

まあ両親には本当に申し訳ないなと今でも反省しております(笑)

ようやくプロとして活動できるようになって


専門学校を卒業後はそのままクラブで本格的に
働きはじめ、同時にドラムのレッスンにも通い、
DJなんかもたまにやったりしつつ、
何となくプロのミュージシャンになりたいというよりは、
バンドとして一旗揚げたいという
夢を抱きつつ、でも現実的にどうなんだろ?
みたいな疑問もあり、悶々としていたのですが、
師匠の教えもあり、とにかく音大も留学も行ってなかったので、
そういう奴らと互角に勝負できるには、
学校では教えてくれないような
いろいろな社会経験を積んで感性を育もう!

という結論に至り(笑)

音楽とは自分の内なるものから出る表現であり、
プラスなことを表現するには、
マイナスなことも経験したいということで、

ちょうどその頃働いてたクラブが惜しくも閉店してしまったことも
あり、そこからいろいろなバイトを経験していくことになります。

もちろん音楽に関係した仕事もしましたし、
まったくそうでないあらゆる仕事も経験しました。

この時の経験はのちに表現の上でものすごく財産になるのですが、
(これは別で詳しく書いていきます)

音楽だけで生活できてるのがプロというのであれば
結局20代後半にやっと
当時まだギリギリあったキャバレーやダンスホール、
ホストクラブなんかでの
いわゆる"箱バン"と言われるハウスバンドの仕事を
するようになってようやっと演奏だけで生活できるように
なるのですが。

プロと呼ばれる世界に入ってみて


一言"プロミュージシャン"といっても
ピンキリであり、その中の業種も様々で、
いわば、もう業界自体が終わりそうな
"箱バン"の世界から入った僕は、
夕方からキャバレーで演奏、その後ホストクラブに
移動し、朝までそちらで演奏、
休みは月に2日くらいだったかな。
マックスで月40万強は稼げたかな。
そんな生活も長くは続かず、
やはりお店自体がなくなっていく中、
このままここにいたら無理だなと思い、
唯一仕事があったホストクラブの閉店とともに、
もう音楽はやめようと思い、
実は1年くらい全くやめて何をしてたかというと
某大きな公園で毎週無許可で開催されてた
フリーマーケットで露店をやってたんです(笑)
その時はTシャツを仕入れてプリントごっこで
印刷して売ったり、レコードから雑貨まで、
売れるものはなんでも引っ張ってきて売ってました。

このあたりの話も別で書きますが
その1年でいろいろ不思議な経験もあったりして

貯めたお金で初めてPCを買い、
とにかくあらゆるジャンルのセッションに通い、
人脈を広げていきました。
そう、だって箱バンしかやってなかったし、
そういった現場にいる人は
ほとんどが有名芸能人でバックをやってたような
ミュージシャンの末路的なとこだったので
今後の仕事の繋がりにもならずだったし、
横の繋がりもほとんどなかったので
とにかくミュージシャン関係の繋がりを
作らないと思ったのでした。

なんだかんだいっても



箱バンをやっている時に、
たまたまドラマーがダブルブッキングされてしまった日があって、
自分ともう一人ドラマーが来てしまうということがあり、
どうしようなんて時に、
現場にあったコンガに前から興味のあった僕は
俺、これやって良いですか?なんて初めて
演奏したコンガに魅了され、
ドラムという楽器の演奏に、
ドラマーの数と仕事の需要と供給を考えると
限界をかんじてたのもあり、
そこからドラムに加え、パーカッションを独学で
始めていきました。

で、話は戻って、
PCを買いインターネットに初めて接し、
とにかくいろいろな人と会って
いろいろな音楽を経験しました。

そこからのちに、バンドのサポートであったり、
メンバーに入ったバンドでレコーディングしたり、
大きな会場でのライブを経験したり、
ストリートライブなどを経て
ようやく、自分のバンドでデビュー後は
猪突猛進で今まで突っ走ってくることができました。

ただ、バンドでデビューといっても
ある程度、枚数リリースしたり、
アルバムが売れていかないと
印税も入らないし、
ライブ自体のギャラも上がりませんので、

アルバイトもしましたが、
個人としてレコーディングやアーティストの
サポートもしないと生活できないわけですよ。

幸い、僕の場合セッションに行きまくってた頃
知り合った人であるとかそういった繋がりから
多少演奏の仕事が入ったりしていたのですが、

これは今も少なからずありますが、
そういった仕事の現場に行った時や、
JAZZでいうその日だけ集まって
演奏するセッションライブをやるにあたって
リーダーと呼ばれる人やお店側がブッキングするのですが、

結構な割合で
同じ音大を卒業したとか、
同じ大学に留学してたとかっていう
見えないコミュティーというか
ファミリーが出来上がるわけですよ笑

それはオファーする時点で少なからず作用するわけで、
彼も〇〇音大卒なんだ!
じゃあオファーしよう


同じ海外の音大に留学してたということで、
どこも出てない自分より、
もう一人のパーカッショニストがオファーされたりとか
デビューしたばかりの今よりも全然無名だった当時
ものすごくそういうことが多かったように思えます。

ぶっちゃけ、僕には表裏社会経験(笑)と、
現場などで培ってきた 学校では教えてくれないような
ことも育んできたし、それが個性にもつながってるという
自信も今ではあるので屈しませんが、

当時の僕にはそれで心を折られることが多々あったのでした。

結局何がいいたいかというと

コロナ禍の影響もあり、
これからの音楽シーンはかなり変わっていくと思うし、
ライブ自体は緊急自体宣言が解除されたとしても
そうすぐには前みたいにできないのではと思うのです。

そうなるとバンドでとかサポートしてるアーティストが
当たったり、はたまた売れてるアーティストの
サポートにつかない限り
(このバンドという形態とサポートという形態は
全く別だと思っているのでこれもまた別で書きますが)
プロミュージシャンとしてやっていくのは
よっぽど考えていかないと厳しい世の中になっていくと
思いますが、

それでもこれからプロとしてやっていきたいと
思う人がいるのであれば、
可能ならば音大や留学はしておいた方が良い
ということです。
いや、音大に限らずとりあえず
普通の大学でも良いと思うのです。

なぜなら、先述したように、
技術はもちろんのこと、
なによりそこから得られるのは
人脈だからです!


同じ楽器を専攻する同級生だったとしても
卒業後、プロデューサーになったりとか
レコード会社に入社したりする人などなど
のちにそれが仕事のツテとして
多いに響いてきます。

技術は正直学校へ行かなくとも学ぶことは可能ですが、
個人的にはそういったのちの人脈を得られる可能性が
大きいということだけとっても
音大や留学をする価値はあると思います。

それだけでも仕事を得る上での
候補者番付のシード権を獲得することができるのですから。

これはミュージシャンに限ったことではありません。
何の仕事をするにしても、
黙ってても人脈が得られるということだけでも
大学へ進学しておいて損はありません。


ではそんな僕はどうしたかというと、
それはまた別の機会にお話ししましょうか。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

そんな僕もコロナ禍の影響で、
ライブの予定はすべてキャンセル。。

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