観覧車グラビティ 第一話
プロローグ
「おじさんが一人で観覧車に乗ると、人生が変わる」
そう聞かされて信じる人が、今のこの日本にどれほどいるのだろう。そんなに多くはいないはずだ。
ほとんどの人にとって観覧車は二人以上で乗るものと思っているから、まず「一人で乗る」発想がないだろう。自分探しと称して一人でインドに行くような人ならば、一度くらいは試すだろうか。
もとよりおじさんともなると、今さら自分の人生を大きく変えたいとも思っていない。昔の僕と同じく、埃まみれの人生でも誇りを持って生きているのだから。
もしいつか、あなたが観覧車に乗る機会があったら、一人で乗り込もうとしているおじさんを探してみてほしい。
手に傘を持っていたらそれはきっと、人生を変える前の僕だと思う。
円山と月野
パニックで硬直していた僕の身体が徐々に感覚を取り戻し、止まりかけた心臓がドクンドクンと正常に脈を打つころには「まさか、おじさんと二人で観覧車に乗る日が来るだなんて」と、俯瞰してシュールな感想が言えるくらい思考が回復した。
「もし僕とこのおじさんが綺麗な顔をしたイケメンだったなら、このシチュエーションは絵になるのかな」などと考え出したところで、いつものくだらない妄想だなと感じて軽く息をつく。
昔、「人生は何が起こるかわからないから、本当にみんな気をつけろよ」と偉そうに、生徒たちを相手に話した記憶はあった。しかしその話を最も信じていなかったのは、話した本人だったなと反省する。
「円山さん、観覧車に乗った理由、覚えていますか?」
僕に向かって放たれたその言葉には、試されるような鋭さがあった。癖毛が強めの黒髪、腫れぼったい上瞼、肉付きの良い鼻。顔の皺もそれなりに濃く、年相応の深みもある。やや鼻詰まりの声に独特の軽薄さがありながらも、スーツの威圧感、さらに上背……正しく言えば今なら座高か。そんな見た目からくる重みのせいだろうか。
ゴンドラという狭い空間に向かい合って座らされることで「取り調べ」の気分を掻き立てられる。
このゴンドラ内では真実のみが発言を許されているような、そんな気分だ。心なしか、何だか喉も渇いてきた。
「観覧車に乗った理由……なんでだっけ」
僕は、首を傾げながらゆっくりと目を閉じて、とりあえずここに来るまでの自分の行動を振り返った。
◇
昼過ぎに起きて見たワイドショーによると、今年の春は例年に比べて季節外れに暑い日が続いているそうだ。やがてそんな日が基準となり、寒い日が来た時には「例年に比べて寒い」とかなんとかで、そんな感じのニュアンスで伝えるんだろうか。例年とはいつどうやって、どのタイミングで決まるのだろう。
「そもそも例年ってなんですか? そんなもの、本当にあなたたちは気にしていますか?」と、コメンテーターたちに皮肉を交えて訊ねたくなる。しかしテレビ越しでは決して叶わないため、その気持ちをなんとか独り言で納めて家を出た。
高速道路を使って50分ほどドライブ。たどり着いたこの場所には、日本でも最大級の観覧車が鎮座している。近くに大型複合施設や大きな公園があるためだろう。相変わらず人々の往来も多く、ついソワソワした目つきで人々を追ってしてしまう。
空を見上げれば、日差しが真っ直ぐに降り注いでいる。雲が一つも見当たらないせいだろうか、地表が無駄なく温められているように感じる。せっかちな蝉がいたら今にも鳴きだしそうだ。
観覧車に乗車するための行列に並ぼうとしたところで、家族やカップルたちで賑わっている様子が目に入ってくる。なんだか空を見るよりも目が眩みそうになったから、両手をポケットに滑り込ませ、息をころすようにゆっくりと目を閉じた。
「1周、20分くらいかかるんだって」
歓喜とも驚嘆とも受け取れる会話が、ガヤガヤとした雑踏の音の中から割って入ってきた。前の方にいるカップルたちの会話のようだ。どうか僕の方は見るなよ、と願わずにはいられない。
「何でおじさんが一人で並んでいるんだと思う?」と、好奇の目で見られながら、カップルの次のトークテーマになるのはごめんだった。
それにしても、耳が良すぎるのも困りものだ。どんな些細な会話でも、つい気になってしまう。教師だった頃は、この能力に何度も助けてもらった。上手く自己表現ができない生徒の、消え入りそうな声を上手く拾ってあげられたからだ。しかしそんな能力も、教師を辞めた今となっては、ストレスの種を運んでくる装置でしかない。
スマホを取り出して時間を確認する。「まだか」と小さくため息をこぼす。さっき並んだばっかりだもんな、仕方がないよな、などと心の中で言い聞かせながら、せめてものモチベーションを維持させる。
「時間の進み方は、その空間自体が動いている速さによって、大きく変わるんだ。でもな、そんな慣性系の運動だけじゃなくて、そのときの『感情』によっても、時間の進むスピードは大きく変化するんだぞ」
物理の授業で使っていたセリフが、脳内で再生された。
「『感情と時間の相関』は、物理学としては正しくないけれど、あながち間違ってもいなかったな」と少し当時を思い出して、笑った。
「最終点呼は15時にこの場所でおこなうから、それまでには一旦帰ってこいよー」
「……はーい」
「楽しい時はついつい時間が早く過ぎるからなー。くれぐれも時間を見て行動してくれよー」
「……はーい」
バラバラで気のない返事を聞きながら、「では解散」と声を張る。三々五々歩き出した生徒たちを見守り、時計に目を落とし、ほどなくして携帯電話を取り出す。
学校で待機する管理職に、ほぼ予定通りに遠足場所に到着したことを伝えるためだった。
「さーて、どうしたものか」
電話を切り終えた僕は逡巡する。
遠足は、いろいろな意味で心労が絶えない。
生徒に怪我や事故があっては教師の責任になるため、生徒の安全確保は最優先事項だ。それに負けず劣らず頭を悩ませるのが、遠足日当日をどうやって過ごすかというものだった。
もちろん教師自身がはしゃぐわけにはいかない。世間の目はいつも、自分が想像しているよりもはるかに冷徹でドライなことを知っている。かといって、テーマパークにスーツで来てしまうほどに割り切ると、それはそれで「先生は一緒に楽しんでくれない」「これだから教師は世間知らずなんだ」となってしまう。
市内散策や観光名所を訪れるような遠足なら、生徒も気も散ってくれるからありがたいのだが、テーマパークとなるとそうもいかない。
しかし、生徒たちはやたらと遠足場所にテーマパークを推したがる。
「気の合う仲間同士で来た方がよっぽど楽しいだろうに」といつも思うのだが、なぜか生徒たちは遠足で遊園地に来たがる。
こっちの気持ちも知らずに。
そんな遊園地の遠足には、実は、教師が好む場所が2つある。
一つは、飲食店が並ぶ場所に置かれた野外のベンチだ。
それなりに人目につく場所だし、なにより飲み物や食べ物で気が紛れる。生徒たちがテーブルでご飯を食べている様子を、写真に撮ってあげる事だってできる。
立地的にも園の中心に位置することが多いから、何かあった際に生徒たちが教師を見つけやすく、また教師にとっても動きやすいメリットがある。
そして、もう一つは……
「あーあ。観覧車にでも乗れれば、この退屈な引率業務も少しは気が紛れていいんだけどな」
僕の心の声が音波となって出てしまったのかと思い、ギョッとしながら音源を確認した。
「お、月野先生」
「なんかごめんなさい。びっくりさせちゃった?」
「あ、いえ」
一つ上の学年のクラスを受け持つ月野先生が、独り言にしては大きな声で、笑顔を崩しながら近づいてくる。
どうやら僕のクラス以外にも、何クラスかこの遊園地に来ているらしい。
管理職への報告が済んだのだろう、早速、手持ち無沙汰を悟られないために世間話をしにきたようだ。
「たぶん観覧車って、遊園地にある乗り物の中で唯一、誰にも邪魔されない時間と空間を堪能できる場所だと思うの」
「はい」
「のんびり過ごせるし、それなのにちゃんと園内も見渡せるから、何か異変があったら気がつきやすいしね」
「……はい」
「ね、観覧車って、意外と遠足の引率にベストな待機場所よね?」
僕は目を丸くした。
わかります! ですよね! と言って、話を広げたい気持ちすらあった。しかし、円山先生も乗る? と言われたらマズいと感じて、返答を躊躇う。
異性である月野先生と勤務時間中に一緒のゴンドラに乗る可能性は、まあ、決して無いのだが。それでも立て続けに観覧車に乗り込み、その様子を生徒たちが見つけたら最後。どれだけ取り繕ったとしても「遊んでいる」「なんか怪しい」となってしまうはずだ。
「いや別々に乗ったんだ!」と言い訳をしようが、腕組みをして「僕たち教師にだって、乗る権利はあるぞ」と正論をかざそうがあとの祭り。学校内で一度立った噂は、尾鰭がついて広がっていくことを知っている。
いや実際、遊具に乗る権利だけは有している。遠足には仕事で来ているはずなのに、最近の遊園地は引率教師の遊園料を免除してくれないため、自分たちのポケットマネーで遊園料を支払っている。
「教師叩き、いや公務員叩きここに極まれり」と憤怒する教師もいたように思うが、教師たちはみな自分たちでお金を出して、乗り物にも乗らず、生徒たちの子守りとご機嫌伺いの仕事を買っている。
「あとで乗ってきたらどうですか? お昼ごろなら空いてるだろうし」
僕は話を続けながら指をさす。
「僕、あっちの方にあるフードコートのベンチで、先生のクラスの生徒たちの様子も一緒に見ておきますよ」
これが今の僕にできる、精一杯のベストアンサーだと思った。
「ね、乗れたらいいんだけど。私、高いところが全くダメなの……残念」
ハッとした。
今すぐ歩み寄って、人目も憚らず両手で力強く握手を交わしたい衝動に駆られた。
僕も高所恐怖症である。何度か観覧車に乗ったことはあるので、そこまで深刻ではない方だと思うが、好き好んで高いところには行きたくない。いくら観覧車が遠足の引率業務においてベストな待機場所だとしても、僕はおいそれと乗るわけにはいかなかった。
時計で言うところの9時から12時に差し掛かるあの高さが、どうにも耐えられない。
「今日こそは克服できるかも」と何度か意を決して、ゴンドラ内から外の景色を見下げてみたこともあったが、いつも足にうまく力が入らない。血の気も引いてしまうから浮遊感すら感じている。
反対に、握り棒を強く握りしめている手には、いつもじんわりと嫌な汗をかいていた。
そんな僕がゴンドラに乗ってできることといえば、居心地が悪そうに何度も座り直すことと、意識をそらすために遠くの景色を見ながら、無意味な妄想をするくらいだった。到底、園内を注意深く見渡すなんてできない。
そこまで僕と同じだなんて、の言葉はさすがに省いたが「意外ですね。なんでも出来そうなイメージがある月野先生なのに」と返した。
よく言われる、とも、怖がりなの、とも聞こえた気がしたが、にぎやかな生徒たちが「月野先生! 行ってくるねー」と次々に横切ったせいで、うまく聞き取れない。
彼女は生徒たちに向けて弾むように手を振りながら、赤くなった耳を隠すみたいに、かけていた髪をそっと下ろした。
その日の遠足業務は、園内のほぼ中央に位置する青いベンチに座って、月野先生と過ごすことにした。
昼食を食べにやってくる生徒たちも、月野先生の周りを取り囲むようにして、普段できないような会話を楽しんでいるように見える。
僕もタイミングを伺いながらではあったが、自分の声が少し枯れていることなんか気にならないほど、月野先生との会話を楽しみ、あっという間に時間が過ぎていった。
僕の、月野先生との記憶は、このあたりで途切れている。
この日から6ヶ月後の、朝晩が冷え込み始めた11月。奈良でも冷たく重い雨が降っていたあの日。大阪にあるタワーマンションの近くで、遺体となって月野先生が発見されるだなんて、この時の僕は想像もしていなかった、はずだ。
雨は嫌いだ。
ルート配送業務の会社に転職して2年が経っていたが、雨の日の運転はどうも好きになれない。視界が悪くて事故を起こすリスクが増えるし、荷下ろしの作業で商品はもちろん、自分が濡れるのも嫌だった。
そのため雨の日の僕は、眉間に皺が寄りやすい。
その顔がワイパーのリズムに合わせてチラチラとフロントガラスに映り、そのたびに、教師時代の疲れていたときの自分の顔を思い出させるのも嫌だった。
「なんで教師を辞めたの?」
この手の質問の返答には、いつも苦労する。
僕はある時から何故だか急に、人の名前が全く覚えられなくなった。
それが、僕の「教師を辞めた」理由である。
別に人間関係のトラブルで辞めたわけではない。やりがいも感じていた。
20年以上も根強く「なりたい職業ランキング」の上位にあるにも関わらず、近頃はネガティブな言葉とセットで教師のイメージが語られていることも多い影響なのだろうか。どちらのイメージが正しいのか「答え合わせ」をせがまれているような気分になる。
転職面接でも「教師」の部分を強調して聞かれたし、多くの人にとって「教師を辞める」という出来事は、かなりのワケありと感じるのかもしれない。
いや、そもそも「人の不幸は何とやら」というし、そういう話には不思議な引力があるだけなのだろうか。
この「名前が覚えられなくなった」という離職理由は、ほとんどの人にとって、不幸も引力も感じられないような理由だろうと思う。
ただ僕にとっては、目の前にひどく濃い霧が発生し、その中を全速力で走り抜けなくてはならないような、そんな息苦しさと不安があった。
次第に顔も覚えられなくなり、終いには目の前のヒトたちに興味がなくなった。と、気づいたところで、「これはこのまま教師を続けていく上で、たぶん致命傷になるだろう」と感じた。
卒業後にフラッと学校を訪ねてくる元生徒の名前が出てこない。
これはまだ『名前後出しゲーム』を始めれば済む。
「名前なんだっけ?」と聞いて「ひどい!」と言われた後に苗字を名乗ってくるから、間髪入れず「いや、下の名前の方」と言ってやり過ごすゲーム。
下の名前を聞いた後の「あ、そうだ、そうだ」の上手さを競う『ソーダ・リアクション大会』と言ってもいいかもしれない。
普段から「教師」という「役」をこなしている者たちにとって、このリアクション大会でバレずに振る舞うことなんて、元生徒相手だろうと造作もないことだった。
同僚の教師の名前が出てこないのも、そんなに問題ではない。近くに行って「先生」とさえ呼べばいい。関係のない先生たちが一斉に振り向くこともあるが、目的の先生以外に目線を合わせなければやり過ごすことができる。
一番困ったのが、在籍中の生徒だった。
クラスの教卓や授業の出欠席を記録する出席簿には、教室のレイアウトを模したマス目の中に、生徒の氏名が書かれた『座席表』が用意してある。
しかし、席替え直後で座席表の準備が間に合わなかったり、不精な担任のクラスの場合は、そもそもそのクラスに座席表がなかったりもした。
イタズラをする生徒が多いクラスも困る。そのようなクラスでは、座席表の信用度が地に落ちるからだ。左右で勝手に席を入れ替えて授業を受けているなんてことは日常茶飯事。中にはクラスを跨いで席を入れ替えていた双子の生徒たちもいた。
こちらが入れ替えに気がつかなければそれはそれで良いのだが、気づいてしまったら最後。見逃せば「暗黙」となる。
水面に広がる波紋のように、一つの暗黙が連鎖的に色々な問題へと発展することは多い。「この間は良かったのに、なんで急にダメなんだ!」と居直られるのも面倒だし、他の教師の前で「円山は許してくれたよ」と僕の知らないところで勝手に仲間意識が芽生えられても困る。
一番の問題は、そんな「取るに足らない問題」のために、多くの時間が割かれてしまう可能性を孕んでいることにあった。
名前が覚えられなくなった僕は、座席表がなければ目の前にいる生徒を呼ぶこともできない。名前が出てこないからといって、授業中に「おい、お前」なんて呼んだ日には、昔と違ってその日のうちに校長室に呼び出されるだろう。いや、一部の先生に関しては、呼び出されていなかったか。ひょっとすると教師のヒエラルキーにも、上級国民と似たようなシステムがあったのかもしれない。何を言ったかではなく、誰が言ったかが重視されるシステム。授業そっちのけで部活指導に力を入れている先生ほど、「おい、お前」呼びが多かったような気もするが、今となっては確かめようもない。
まぁそんな一部の上級先生は除いたとして、小学校なんかでは男女構わず「さん付け」に統一されるくらい、こと「名前」に関してはセンシティブになっている。どれだけキラキラネームだったとしても「かっこいい名前だね」「可愛い名前だね」と肯定すらしてはいけない。上級でなければ尚更だ。
追い打ちをかけるように「双方向の授業が大事である」「対話的な授業が、深い学びに結びついていく」「コミュニケーションを大事にして、寄り添って教育していきましょう」こんな教育目標が、広く根強く雑草のように蔓延ってしまった。それらが手枷足枷のようになって僕に絡みつき、自由を奪い、やがて授業のたびに呼吸の仕方を忘れるようになっていった。
細い針金の上を歩かされながら「この人は誰でしょう」クイズに1日20問連続で正解しなくてはならないような、胆力と度胸を試される毎日だった。
教師の仕事は減らない。増えるときは容易に増えるが、一向に減らない。おそらく教師の仕事には始めから「減らす」というコマンドが欠けているのだと思う。クイズに正解しながらこなせる業務量の限界は、恐ろしいほどあっという間に訪れた。
「みんなやってることだぞ、できて当たり前」
「こんなこともきちんとできないなんて、お前、教師失格だな」
そんな声が聞こえてきそうだった。誰から? わからない。教師は見知らぬ誰かしらから、いつも見張られているのだ。犯人はこの人です、なんてわかりやすい問題を解くことは基本的にない。
教師は体も頑丈でへこたれず、無限のスタミナを有して、スポーツもできて高学力も求められ、高い規範意識を持って、なんでもそつなくこなせる。そんなスーパーヒーローでなくてはならない存在だ。それ以外は万死に値する。そんな世界なのだ。
僕だけ「この人は誰でしょう」クイズがオプションで付いてしまい、「減らす」コマンドがない状況では、とてもじゃないが最高のパフォーマンスは出し続けられないと思った。
死刑宣告を受けて心が壊れてしまう前に、逃げるようにして転職サイトにアカウント登録ができたのは、教師人生の中でもファインプレーの部類に入るだろう。
「いのちだいじに」の行動ができた僕自身を、褒めたい気分にもなった。
そんな教師経験を持つ僕は、今ではルート配送ドライバーの2年目。随分と仕事にも慣れたと感じる。おじさんの最大の武器はたぶん「慣れること」にあるのだろうと錯覚するほどだった。
それでもやはり、飲み会のあとのアルコールチェックは、いつも入社したての頃くらいドキドキする。
今もそうだ。経験上、さすがに1日空けば大丈夫だろうと楽観はしているが、それでもゆっくりと、注意深く息を吹き込んだ。
「お、けっこう元気そうやん」
「懐かしいなあ、4年ぶりやっけ?」
二人の元気そうな顔を見て僕も「だね、久しぶり!」と笑顔で返した。
教員採用で同期だった彼ら二人が、飲みの席を設けてくれた。月野先生が亡くなって、早くも6年が経とうとしていた頃だった。
月野先生は、僕や彼らと同じ大学の出身だ。先輩と後輩の関係ではあったが、採用年度が一緒だったため「同期」としてお話しする機会も多かった。
何事にも積極的で日々新しいことに真正面から挑戦し、正義感が強かった彼女は「先輩」というひいき目を抜きにしても「理想の教師像」を体現しているような人だったと思う。
彼女は数少ない「わからない」をきちんと言える教師だった。仮に「わからない」を素直に言える教師が他にもたくさんいたとして、彼女のように「じゃぁ、一緒に調べてみようか」とか「それじゃ、こっちならできるかもよ」などと提案まで一緒におこなうのは、なかなか難しいことではないだろうか。
彼女は「できない理由」を探すより、「できる可能性」を見つけ出すのが上手い人だった。ほんとうに、惜しい人を亡くしたなと思う。
気を抜くと深いため息が出そうになったから、この重く暗い気持ちは早くお酒で流してしまわないといけない、そんな気がした。
たまたま通りかかった店員をつかまえて「ここに生、もう一つ追加で」と早口で伝える。
地方の高校教師は、その半分近くが地元にある教育大学か教育学部の出身だ。ここ奈良県でもそれは同じだった。
今日も学生時代からお世話になっていた居酒屋に来ている。学生の頃には店内入ってすぐのところに大きな生簀があって、そこで釣りなんかもできたと思っていたが、今では随分とおしゃれな店内になった印象がある。
竹林をイメージしたエントランス、ウォールナットの壁に目隠しの赤色の簾カーテン、店内をせせらぐ川のインテリア。インバウンド向けに改築でもしたのかもしれない。
「七回忌って、7年後とちゃうの?」とすっとんきょうなことを言っていたお調子者の方の彼は、前回会った時よりも浅黒さが増し、ふた回りくらい身体が大きくなっている。そのせいだろうか、貫禄を感じずにはいられなかった。それでも中身は学生時代から変わらない様子だったので、そんな彼を見て思わず昔を思い出して笑みがこぼれる。
「七回忌のそれ、生徒や保護者の前では言わない方がいいぞ」と釘を刺しておいたが、あのお腹に刺さるかはわからない。
「それでどうよ、転職して第2の人生は?」
もう一人の彼が僕に尋ねた。スピードメニューで頼んだ枝豆に腕を伸ばしながら尋ねてくるものだから、抑揚も熱も特に感じられなかった。ただそれが、彼なりの気遣いだと知っているから「とりあえず問題ないよ、ありがとう」と、こちらも重くならない程度に答えておいた。
転職先が決まったのは、資格のおかげだった。
もっとも、教師の多くは運転免許と教員免許くらいしか履歴書にかける資格を持っていない。ご多分に漏れず僕もそうだ。
しかしそのどちらも、取得した時期が古いことで、良くも悪くも僕の第二の人生を動かした。
「教員免許更新制度」のあおりを受けて、在職中に教員免許の更新手続きをおこなっていた。しかし程なくして、更新の制度自体が無くなった。
「自腹で数万円を支払ってまで延長させたのに……無くすなら最初からやるんじゃねーよ」と皮肉を言いたくもなる。「あの時に受けた講習には、いったいどんな意味があったのだろうか」
とはいえ、更新制度がなくなったおかげで「最悪、いつでも講師に出戻りして働けばいいや」と安心感ができたのは事実だった。
教師は、免許があればいつでもできる仕事だ。「新卒」というプラチナカードをいきなり切りたくない、というのも頷ける。
一方で、運転免許は古いからこそ助かった。街中で見かけるトラックくらいなら、「中型車(8t)に限る」の限定解除をしなくても、そのままの免許でそれなりに運転できると知ったからだ。
「限定解除したら仕事の幅が広がるし、手当も増えるぞ」と、新人研修として1週間同乗させていただいた年下の先輩は鼻息を荒くして熱弁していた。
「はは……」と答えるのがやっとだった僕は、福利厚生や手当について書かれた会社のパンフレットを、1週間分の愛想笑いとともに先輩の車の助手席に置いてきてしまった。
ちなみに、ルート配送業務の1日は、アルコールチェックに始まり、アルコールチェックで終わる。
自分が信用されておらず、何だか毎日試されているみたいで息がつまりそうだな、と、働き始めた頃は感じていた。
しかし転職して2年経った今では、検査を目視確認してくれている総務の人に向かって笑顔で会釈ができるほど、リラックスしている。
むしろ今では、このチェック業務に感謝すらしている。毎日きちんと数値で僕のことを評価してくれて、「よくできました」と言わんばかりの勢いで毎日丸がもらえる。丸をつけられるたびに僕は、小学生さながら自然と笑みがこぼれていた。
志望動機に入れたくなるほど魅力的なルーティーンとは言えないが、毎日のささやかな楽しみの一つだ。
教師を辞めた後の僕は、日々の健康状態を確認してもらい、マルをもらっては少し誇らしくなっている、無味乾燥な毎日を過ごすアラフォーのルート配送ドライバーだ。
教師だった頃の記憶は正直あまり覚えていない。そのため、目の前にいる同期の彼らと、一緒に楽しめる思い出もだいぶ減ってきてしまった。
それでも漠然と、あの頃は一挙手一投足、自分の行動が細部に至るまで、見知らぬ誰かにいつも見られているような感覚があったことだけは覚えている。
あの頃より、今の方がよっぽど人間的に生きていると思えた。
非公式ではあるが僕らなりに七回忌の意味を持たせた今日の飲み会には、本当はあと三人ほど同期採用の教師たちが来る予定だった。しかし「翌日の部活で朝が早いから」とか、「生徒が問題起こしちゃって今からその対応しないといけない……」とか、そんな理由で来られなかったようだ。
教師の働き方改革は、まだ地方までは浸透しきっていないらしい。
「ところでさ」そう言って右の彼は話を始めようとした。
貫禄があり低くて重いその声を聞いて、僕は、口元に運ぼうとしていたジョッキの手を思わず止める。
「月野先生、亡くなる前日に大阪で観覧車に乗ってたんだってよ」
「へぇ、彼氏さんとか居たんだ」もう一人の彼が合いの手を入れる。
「いやそれは知らんけど、大阪で観覧車に乗ってて。ほんで……」
翌日に事故死した、とは誰も口にこそしなかったが、言いたいことは何となく伝わった。「誰と乗ってたんやろうな」とか「事故現場も確か大阪やんな」とか、そんなあたりだろう。
いや実際、そのような会話は目の前で繰り広げられていたのかもしれないが、僕にはどうしても納得ができず、その後の会話が入ってこなかった。
……観覧車に乗った? あの高所恐怖症の月野先生が?
手に持ったままのジョッキがやけに重たく感じたので、テーブルに置いた。
ガタンと重みのある音が鳴り、枝豆のガラ入れの器が少しだけ揺れた。
<続>
→ 第二話 を読む
第一話 円山と月野
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