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観覧車グラビティ 第二話

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円山とゼロ

「こんなに高い、観覧車に……」

 なんとか振り絞って出したその声は、周りの雑踏にすぐかき消される。
「普段は10分くらいでご乗車いただけるんですが……」と、金髪の男女四人組のグループに向けて丁寧に説明しているスタッフの声の方が、まだ大きく感じた。
 スタッフに横柄な態度を取ったって早く乗れるわけでないのに、なんでああいう輩たちはいつも自分たちが正義だと思っているのだろう。
「嫌なら乗らなければいいのに」僕は周りに聞こえないようにボリュームを調整して、その場に吐き捨てた。

 モノレールと高速道路、一般道も並走しているからだろうか。
 人の流れを絶え間なく感じる場所にある、とても大きな観覧車。

 近くには、不気味な顔が2つ、いや、たしか裏にも1つ付いているから合計3つ張り付いた塔が立っている。
 「太陽の塔」という、ポジティブこの上ないネーミングをしているのに、その名に反して表情はいつ見ても不気味だった。
 その不気味な塔は、両手を広げたような格好をしている。まるで多くの人々をこの地に招き入れているみたいに見える。

 観覧車も塔もそれ以外の建物も、この辺りの建造物はみな白かった。そんな人工物の白さが、木々の緑と空の青によって、より一層際立って白い。
 僕の顔もきっと、負けず劣らず白いのだろう。

 先週の久しぶりの同期飲み会から帰った後に、月野先生が乗ったとされる観覧車について、インターネットで調べてみた。
 そのホームページに「全ゴンドラの床がシースルー♪」と書いてあったことを、真下で観覧車を見上げながら思い出す。
 まとわりつくような汗が止まらないのは、季節外れの暑さのせいだけではないはずだ。さっきから、唾が思うように飲み込めていない。

 こちらをチラチラと見ていたカップルが、新しいおもちゃを与えられた子どものような顔をして二人の世界に入り込んで行った。
「おじさんが一人で観覧車に乗る理由の答え合わせを、してあげられなくてごめんね。二人仲良く20分の旅へ行ってらっしゃい」と、僕は心の中で彼らにエールを送った。
 次は僕がゴンドラに乗る番だ。
 ルーティーンとかゲン担ぎとかがある人は、決まった足からゴンドラに乗り込むのだろうか。僕はただ「足元にご注意ください」と流れ作業で声を掛けてくれるスタッフの言葉を額面通りに受け取るので精一杯だった。
 つまずかないことだけに全神経を注いで、ひとりゴンドラに乗り込む。

 バタン、ガシャン、カシャンと音を立てて閉まるその扉は、世界とこの空間を隔てるためだけに用意された、とても分厚い鉄の壁のように感じた。有刺鉄線こそ無いが、これで僕は逃げ場所がなくなったのだと、いやでも理解させられた気がする。

 引率業務やデートなど、他にやるべきことがたくさんあるような人たちであれば、この静寂で閉鎖的な世界はウェルカムなのだろう。しかしそのどちらも今の僕には残念ながら無い。
 吸い付くほどに冷たい握り棒を強く握りしめながら、遠くを見つめる。

 ゴンドラの中から不気味な塔を眺め「あ、ここからだと『過去』は見られないのか」などと、意外にも冷静に観察ができたのは、すでに2回ほど座り直して、心に少しばかり余裕ができたおかげかもしれない。
 太陽を模した不気味な黒い顔は塔の背中側にあるため、この観覧車のゴンドラに乗っている状態では、どうやっても見ることができなかった。

 塔の胴体部分に描かれた、不貞腐れたような表情をしている「現在」の顔は、今の僕の表情に近いのかな、と感じてなんだか親近感が湧く。
 しかしそのにある「未来」を表す金色の顔が、口を尖らせながら「ダッサ! もうビビってんの?」と話しかけてくるようだったので、なんだよ、と眉をひそめながら睨み返す。
 金色の顔はそんな睨みをものともせず、単調な声で「そんな観覧車に乗ったところで、『過去』はどうやったって覗かれへんで。知らんのか? ほら、黒い顔はそっから見られへんやろ?」と大阪弁で返してきた。

 高所恐怖症だったはずの月野先輩がなぜ観覧車に乗ったのか、その考えをちょっとでも覗き見たかった僕としては、心の内を見透かされているようで鼓動が早くなった。シースルーの床のせいですでに・・・心臓は悲鳴をあげているのに、何てことを言うんだ。不気味な塔め。

 やがて、視界の上下に、他のゴンドラが見えなくなった。どうやら9時の位置に差し掛かったようだ。
 僕にとって最も恐怖を感じる時間が始まる。少しでも落ち着くために、ゆっくりと目を閉じる。
「……これから」と、ため息まじりに言葉を吐き捨てたところで、「こんにちは」と声をかけられた。

 ……こんにちは?
 ゴンドラ内にあるスピーカーから聞こえたのか? 目を閉じたまま意識を上に集中させたが、いや、違う。
 じゃぁどこだ。気のせいか?
 目を開けた。

「こんにちは、円山さん」

 目の前にいる。おじさんがいる。知らないおじさんがいる。
 足元のシースルーの床が罰ゲームか何かでパカっと開いて、足が宙ぶらりんにでもなっているのか。いつも以上に足に力が入らないけれど、下を見て確認する余裕も度胸もない。

 ああ、1つのゴンドラだけ大きく揺れている、そんな観覧車の映像を何かで見たことがあったな。きっとあのゴンドラの中もこんな感じだったんだろうな。
 握り棒を握り締めながら慌てふためき、薄れゆく意識の中でそんなことを考えていた。

「ディファレンシャル」と叫ぶ、聞き慣れない男性の言葉が聞こえたような気がしたが、もうどうでもいい。目を瞑るのが早かったか意識を飛ばすのが早かったか。いずれにせよ、僕はシャットダウンした。


「円山さん、円山さん」
 起こさないでくれと、僕は眉間に皺を寄せる。
「円山さん、ちょっと? 起きてください?」
 うるさいな、と僕は首の後ろを擦りながらイライラと鼻を鳴らす。
「円山さん?」
「しつこいな、もう!」と目を覚ますと、知らないおじさんと狭い空間にいたから、夢か? と混乱する。目を覚ましたと思ったら、夢の中で目覚めた、という夢を見ているだけなのか?

「観覧車に乗った理由、覚えていますか?」

 違う現実だ。目の前に知らないおじさんが座って、僕に訊ねている。
 しかしそれ以上に、とても大きな違和感を感じた。

 僕の顔の周りに赤いセロファンが巻かれているかのように、どこを見ても薄ら赤かった。まばたきを2つ、3つ繰り返す。赤色が無くならない。おじさんもいなくならない。
 情報を得るためにゆっくり視線を振った。
 赤い空、赤い雲、赤い緑。濃淡の違いはあれど、どこもかしこも赤い。両手を広げた不気味なあいつも、赤く染まっている。
 なんだろう。赤く見える以外にも違和感は感じるが、その違和感の正体が何なのか、結局よくわからない。

 目の前にいる重たそうな上瞼をした知らないおじさんが、僕に訊ねてくる理由もわからない。そもそもなぜ、そんなおじさんが目の前に座っているのかも全くわからない。わからないことだらけで、むしろ、この状況でわかることは何なんだと、そっちを探す方が得策に感じられた。

「観覧車に乗った理由……なんでだっけ」

 とりあえず僕は聞かれたことをオウム返しに口ずさんでみたが、「そんなの、景色を見るために決まっているじゃないか」と言えないのが僕である。景色を見るために観覧車に乗ったわけではない。
 かといって、何と言えばこの人は納得してくれるのか。僕は顔をしかめながら目を閉じる。

「まさか、おじさんと二人で観覧車に乗る日が来るだなんて」と、今置かれた状況を整理してみたが、当然、知らないおじさんとイチャつくために観覧車に乗ったわけでもないしな、もし僕とこのおじさんが綺麗な顔をしたイケメンだったなら……と考え始めたところで、それ以上あれこれと深く考えることはやめた。僕の悪い妄想が出るだけだ。

 考えても考えなくても、この状況は全く理解できない。それなら試験問題よろしく、パスして次の問題を解くだけだ。先輩の名前を正直に出して、問題があるかどうかだ。

「月野さんという方がいまして、その方がこの観覧車に乗っていたらしくて」

 世の中に月野さんという名前は先輩一人のはずがない。大丈夫、苗字くらいまでは、勝手に個人情報をさらけ出しても問題ないはずだ。
 きっと「誰ですか?」となる。そうすれば、次の問題。どうやって個人を特定されずにうまく説明できるのかを考えれば良い……はずだった。

「月野さん、月野さん……あぁ、6年ほど前までいらっしゃいましたねー。女性の、しりとりが好きな。懐っつかしいなー」
「え?」

 しりとりが好きだったかどうかは知らないが、6年という具体的な数字が僕の胸をチクっとさせた。当てずっぽうで出てきた年数の可能性もひょっとしたらあったのかもしれないが、同じ「月野さん」を思い出している予感がした。

「知って……ご、ご存知なんですか? 月野先生を」

 迂闊にも「先生」をつけて訊ねてしまったと気づいたのは、言葉を発した後だった。先輩の知り合いであれば失礼があってはいけないと咄嗟に思い、丁寧に聞きすぎてしまった。
 敬称は個人情報に含まれるのだろうか。

 僕の質問を聞いた目の前の彼は、重たそうな上瞼に力を入れて、正面から僕の目を見ながら即答した。
「知っているも何も、彼女に仕事を手伝ってもらっていましたからねー」
「仕事?」

 白いパズルを解かされる気持ちはこんな感じなのだろうか。
 一つひとつの会話の情報がとても重要なピースのような気がするけれど、どこから手をつけて整理すればいいのか分からない。

 いや、そもそも。このゴンドラ内で目覚めてから、目に入ってくる情報の全てが理解できていない。握り棒を握りしめている手は、すでに真っ白で血の気が引いている。視覚も触覚も頼りにならない今、聴覚だって信じてはダメなのかもしれない。そんな風に感じた。
 正確に言えば、手の色は確かに白く見えており、ゴンドラの外は薄ら赤色をしているから、なぜこの空間だけちゃんとした色で見えているのか、五感の半分以上の信頼が失われている今、その原因を探りようもない。まるで宇宙の中に放り出されて、もがいているような感覚になった。

「……月野さんのご紹介でしたかー、円山さんは」
 目の前の彼の声で現実に引き戻された。
 軽薄な声は、よく通る声だった。

「……紹介?」
 なんの話だ? 眉間の皺が深くなる。どう答えるべきか……
「あれ、違うんですか?」
 顔が近づいてくる。この人は接近話法タイプのおじさんなのか? 

「どっち?」
「え?」
「月野さんの、紹介?」
「いえ」
「なんだよー、違うのかよっ!」
 仰け反りながら放った彼の軽薄な声は、狭いゴンドラ内に響き渡った。
「ちょっ」
 周りに聞こえたらどうしてくれるんだ、と焦りながら辺りを見渡して、もう一つの違和感の正体に気が付く。

 相変わらず、上下に他のゴンドラが見当たらない。
「高さが、変わっていない……?」なんとか声を振り絞る。
 これって……いったい……

 休日まで時間に追われるのは嫌だからと、いつものように時計を外してきたことを少し後悔する。スマホで時間を確認しようにも、スマホはカバンの中だ。探すためには、握り棒から手を離さないといけない。
 時間の手がかりを探すようにあたりを見渡す。薄ら赤い景色の中、車もモノレールも止まって見える。
 怖いという感情は、時間の進むスピードをこうも変化させるのだろうか。
 そんな僕の様子を見て察したかのように、目の前の彼は説明を始めた。

「あー、セカンドまで一気に使ったんでー、だぁいぶゆっくりになってますよねー。ごめんなさいね、なんの断りもなくー」
「え……?」
 セカンド? セカンドとはなんだ?
「いやでもほらぁ、円山さん。あなたー、意識飛ばしちゃうから。私の方がびっくりですよ。もうびっくり。びっくりしすぎて、思わずセカンドまで一気に使っちゃったんですよー?」
 肩をすぼめ、眉間に皺を寄せ、眉尻を下げながら話すその姿は、一切悪びれる様子がない。軽薄と言うよりは、飄々という表現の方が相応しいかもしれない。「こっちは全て手順通りに対応していますけど? 何か?」と、あたかもこの状況は全部僕のせいですよ、と言ってきそうな雰囲気すらある。

「なんで、僕の名前を知っているんですか」
 僕がそう彼に訊ねると、さっきまでの、まるで金属鍋にパチンコ玉を入れたようなうるささがなくなった。
 地雷でも踏んでしまったのだろうか。それとも正しい選択肢を選べたおかげで、次の問題に移れたのだろうか。

「あー、そこから説明しなきゃですよねー」
 そう前置きを入れた彼は、再起動するかのように「失礼っ」と言って、居直って話し始めた。

「昔話から始めましょうー」

 落ち着いた口調で話す目の前の彼は、重そうな上瞼に力を入れる。
 心なしか目が輝いているように見えた。


「私はゼロといいます。普段は人々を導く仕事をしております」
「……導く?」
「はい、困っている人を導いていく仕事です」

 別に困ってないけど、と弁明するよりも早く、目の前の彼は話を続ける。
「古くは……と言っても、私が担当してからという意味ですが、私の担当は今から80年ほど前になりますでしょうかー。私の知っている限り、私のような存在は、500年ほど前にはあったように聞いたことがあります」

 80年前が何時代で、500年前が何時代で……と、歴史の勉強みたいに耳を傾けている場合ではない。言っていることが事実なら、この人は一体いま何歳なんだ。どう見たって50代かそこらにしか見えないのに。

「ま、平たく言えば、人の悩みを天秤にかけて教えを説く、そういう『係』みたいなものです」
 そう言いながら、目の前の彼は自身の両手のひらを上に向けて、上下に軽く動かし天秤の動きを模した。ひょろっとはしているが上背があるため、彼がおこなった天秤のポーズは、実際のそれよりも幾分ダイナミックな動きとなった。そのため、天秤で釣り合いが取れる瞬間というよりも、ジャグリングをしているような雰囲気さえあった。

「……天秤?」僕は訊ねた。
「あれ、知りませんか? 天秤。重さを測るための装置。確か円山さんの前職は……」
 そう言いながら彼は、バインダーに挟まったチェックシートをペラペラペラとめくっていた。いつの間にバインダーなんて持っていたんだ。
「いや、天秤は知っています」という僕の返答に対して、こちらを一瞥し、そうですか、と言わんばかりに手をだらんとさせた。

 1秒でも早くこの観覧車を降りたい。降りなくては。
 僕は、敵地で活動する伝令係よろしく、今すべきことを必死に探した。
 まずは、この人が僕に害をなす人なのか、それとも、味方になりうる人なのか。それをきちんと見極めなければならない。
 必要なのはきっと対立ではない、情報を一つでも多く集めることだと思う。この薄ら赤い世界の中で孤立した、地上から50mも離れたシースルー床の監獄から抜け出すために。
 幸い時間はありそうだ。周りを見渡すと、鳥も風も止まっているように見えた。

「それで、天秤にかけるって、いったい何を……」僕は慎重に訊ねる。彼の行動はどんな意味があるのか、その真意を探るために。

「釈迦に説法かも知れませんが」
 そう前置きを入れて、目の前の彼は話を続けた。

「天秤で重さを測るときに必要なのは分銅です。おもりですね」
 知ってます、のつもりで顎を引く。
「しかし、本当の分銅はもちろん必要ありません。相談者の悩みや苦しみ、それまでにおこなってきた行為について、どんな『思い』がどれほどの『重さ』となってしまっているのか。どこを直せば、全部きれいに元通りになるのか。それを見極めて、伝える仕事をしています」
 話がよく見えない。眉間にやや皺を寄せて、独り言のように訊ねた。
「見極める……?」
「ええ、今風にいえばデトックスってやつでしょうか。見えないものを見えるようにしてあげることで、今のあなたに何が足りていないのか、何が不必要なのか、それを伝えています」
 そう言いながら目の前の彼は、望遠鏡でも覗くようなジェスチャーをしている。見えないものを見ようとしている、という意味を伝えたかったのだろうか。
「今では、デトックスなんて言葉あまり聞かないよな」とも感じた。
 しかし問題にしたいところは、彼のジェスチャーでも言葉でもなかった。

「今の僕に足りないもの?」
 そんなもの、高所に打ち勝つ度胸や精神力しか思い当たらなかった。

「円山さん、私ならあなたを救うことができます」

 見ず知らずのおじさんにそう言われても全く嬉しくなかった。むしろ使い古された宗教の勧誘文句のようにも聞こえる。僕はもう一度心の中で確認する。今必要なのはきっと対立ではない、情報を一つでも多く集めることだ。

「それで……」
 僕がなぜ、そんな「救いたい」と思える人なのかどうか。訊ねてみたところ、意外にもシンプルな理由が返ってきた。

「ああ、それは自動判別の結果で『該当者候補』と出ていたものですからー」
「自動判別?」
「これです」

 そう言うと、何もなかった彼の右手には再びバインダーに挟まれたチェックシートが数十枚現れた。音もなく現れるものだから、驚く暇もない。いやもう驚き疲れただけなのかもしれない。どうせみる夢なら、もっと休まる夢が良かった。消耗するのは嫌いだ。

「ほらー、見てみて。ここに、チェックがたくさんついているでしょうー?」

 チェックシートには、ぱっと見では全く理解できない文字ばかりが並んでいたが、数字や記号……これはギリシャ文字だろうか。箇条書きのように一つひとつの項目として列挙された文字列の横には、チェックボックスも書いてある。パッと見た感じ、多くの項目に丸チェックがついていたため、何だか悪い気はしなかった。

 その反面、「ここに僕の情報の全てが載っているのだろうか」「だから、僕の名前も知っているのだろうか」などと考えると、真綿でゆっくりと首を絞められるような息苦しさがあった。

 僕は呼吸する許可を求めるように、そういえば、と質問をする。

「さっき、『セカンドまで使ってしまった』とか何とか言っていたと思うのですが、それってこの赤い景色と関係があるんですか?」
 気になっていることを、まとめて一息にぶつけてみた。

「あー、そうですね。私も『ディファレンシャル』を使うのが2年ぶりで、事前に許可が必要なことをすっかり忘れていましたよ」
「ディファレンシャル……?」
「円山さんが、ディファレンシャルの仕組みを知っているものだと勘違いしていました」

 質問を質問で返された気分だ。これ以上解くべき問題を増やさないでほしい。
 目の前の彼は、これは申し訳ない、という表情を浮かべて両手を合わせている。事前に許可をとっていなくてごめんね、とでも言いたそうな顔だ。

「その、ディファ……レンシャル? ですか。それって、何ですか?」
「あれー? ご存知ないですか? 確か、前職は物理教師ではなかったですか……? えーっと、ほら……やっぱりそうだっ」

 目の前の彼は例によって右手にバインダーを出現させて、チェックシートをペラペラペラとめくりながら、指を差して答えた。ようやく確認できた、と鼻息を荒くしているように見える。

 僕は、前職を見事に言い当てられたという驚きよりも、本当に全ての情報がそのチェックシートやらに書いてあるのかもしれない、そう感じて視線が彷徨った。
 名前も知られているし、前職も知られている。この人には何でもお見通しなようだ。それならば、高所恐怖症であることも知っているのだろうか。いっそのこと、ここから出してもらえますか? と尋ねてみるか……この状況怖いんです。救ってくれるんですよね、僕を……と。

 でもそんな淡い期待はすぐに打ち砕かれる。視界にチラッと床越しの景色が入り込んでしまったからだ。今すぐこの高さから脱出するなんて、不可能じゃないか。吸い付くように冷たい握り棒によって、あらためて僕の体温がみるみる下がっていくような気分になった。

 そもそも、自分の意思で取調室を出入りできるのは、尋問する・・側の特権だ。尋問される・・・側ではない。一刻も早く安全に観覧車を降りるために僕ができることといえば、やはり、情報の獲得と現状の整理だけのようだ。
 握り棒を握る手に、ギュッと力がこもった。

「ディファレンシャルって、聞きなれない言葉なんですが、物理とか、この赤い景色とか、なにか関係あるんですか?」
「ディファレンシャルとは、日本語でいうと『微分』ですね。微分、分かりますよね?」

 なるほど、だから物理教師を確認したかったのか。「微分を教えるのは数学教師ですよ」と揚げ足を取りたい気持ちが無意識に芽生えたが、その芽が成長し切る前に、なんとか心にしまっておいた。
 おじさんともなると、脳に浮かんだ言葉を口に出さずにいるのは一苦労だ。放っておくと、つい余計な種を口から蒔いてしまう。

「微分すると、景色が赤くなるんですか?」僕は答えてもらっていない部分についても回答を求めた。

 そこまで聞くと目の前の彼は、あ、そういうことね、と言わんばかりに、「釈迦に説法かもしれませんが……」と再び前置きをして、話し始めた。

 さっきから出てくる「釈迦に説法」って言葉、確か教師時代にもよく聞いたな、と霞がかかった記憶を懐かしんだ。
 釈迦とこの人とはどっちが年上なんだろう、本物を前にしても言ったことがあるのかな、いやでも釈迦ってもっと大昔の人だっけ、などとくだらないことばかりを考えてしてしまった。
 いつもの妄想だ、早く観覧車を降りなければ……。

「私はディファレンシャル、すなわちこの空間に対して『微分』をおこなって、時間を確保しました。円山さん、あなたの意識がいつ回復するか分からなかったためです」
「……すみません」と思わず謝ったが、本当に僕が謝る必要はあったのだろうか。

「今、私たちがいるこの空間と、ここから見える外の空間とでは、微分によって時間の進み方が違います。今の学校では『慣性系』なんて言葉を使って説明するんですよね、たしか」
「さぁ……」そんな気もするが、授業のことなんて残念ながらほとんど覚えていない。

「もう一方の空間が猛スピードで動いている場合、それぞれの空間では時間の進み方が異なります。そのことは、ご存知ですよねー?」
「と、特殊相対性理論……?」
「ご明察。正確には、重力場で起こっているので一般相対性理論の方ですが……ともあれ、時間の進み方を可変にできるのが、空間そのものに微積分をかますこのやり方です。私がおこなった『ディファレンシャル』もその一つです」
「そんなことが……可能なんですか」
「はい、グラフの一点を拡大するかのように、その変化を細かく見ることで、相対的に時間のギャップを作ることができます」

 正直、理解が追いつかない。物理を教えていたはずだが、現場を退いてしばらく経ったからだろうか。僕は眉をひそめながら首を傾げて聞いていた。

 その様子を見て、目の前の彼は何かを思いつたように、肉付きの良い鼻の頭を軽くあげて、声のトーンを一段階高くして、より軽やかに話を続けた。

「そうだっ! ちょうど地図アプリかなにかで、広域から詳細の縮尺に切り替えるような作業ってするでしょう? ピンチアウトだっけな。指2本を広げる、あれ。それが今の状況です。そのズームアップをしている最中には、目的以外・・の空間が、ものすごい勢いで遠ざかっていく。その空間を見ているのが、現在です。外の空間は今、私たちからものすごい勢いで離れているような状態です」
「あー、赤方偏移……でしたっけ? 光の、ドップラー効果の」

 やはりどうしても、高校生に教えない範囲が混ざると知識が定着していないものだなと痛感する。辿々しく答えるのがやっとだ。学校で教える内容以外をきちんと理解していないのは、教師の悪い癖なのかもしれない。

「そうです。そうです。せっかくなのでもう少し掘り下げますと、今の段階は『二階微分』です。それで『セカンド』。二階微分の説明は……やめておきましょう。もし知りたければ、ご自分で調べてみてください」

 宿題まで出すのかよ。これではまるで、生徒と先生が反対ではないか……と感じたが、いや、合っているのか。僕はもう先生ではないし、彼の見た目は50代かそこらだが80年前からこんな感じで振る舞っているという話だ。彼の言っていることを信じるのであれば、彼は僕よりも随分と先に生まれているはずだ。先生の名は伊達じゃない。

「回数を増やせば時間の進み方のギャップが増えるので、外の空間に対して、より多くの時間を確保することができます。ただし」
「……ただし?」
「微分に関しては、何回も続けると『変化』が見えなくなってしまうんですよー。止まる、と言ってもいいですねー。一般的には……あ、ここでいう一般とは『相談者全般』という意味ですが、ま、3回が限度でしょうー。それ以上、微分をしてしまうと……」

 そう言うと彼は、一呼吸をおいて自分の胸元を指差した。

「ゼロになる……と」僕は弱々しく答えた。

 ネームプレートを付けていたなんて気づかなかった。気が動転しすぎて見えていなかったのか、はたまた例によって音もなく出現させたのか。どちらでもよかったが、「微分を闇雲に続けたらゼロになる」その言葉を反芻して、僕はぎこちなく笑った。死ぬとかそういう意味なのだろうか。それとも、私みたいになるぞという意味なのだろうか。どちらも証明したくない仮説だった。

「なので、ディファレンシャルをお使いになられる場合は『セカンド』までに止めておかれた方が良いと思いますー」
 そう言いながら、目の前の彼は指でピースサインを作っていた。
 だから私も2回までしか使っていませんよ、安心してくださいね、と言っているように見えた。


 ゴンドラは、てっぺんの12時の位置に来る頃だった。

「さあ、そろそろディファレンシャルが終わりますが、ほかに確認したいことはありませんかー?」私、そろそろ帰りますがー、とでも付け足しそうな勢いだった。

 このゴンドラにはトータル5時間ちょっと・・・・・・・乗っているはずだが、好きな映画やアニメを連続で2本見たとき以上の充足感がある。
 立ち上がって拍手をしたいくらいの高揚感もなくはないが、残念なことに足元はシースルーだし、ゼロは握り棒から手を離す勇気までは与えてくれなかった。

 ゼロは自身の役割の話をした後、観覧車の歴史、千利休との意外な関係についても話をしてくれた。
 ゴンドラ内で目覚めた直後には「1秒でも早く」降りたがっていたのに、今では終わりを告げられて「え? もうですか?」と答えていた。
 正直、どれも新鮮で面白かった。そう、素直に面白いと思ってしまったのだ。

「なぜ」にきちんと答えてくれる、知識欲を満たしてくれる。シンプルだが、そこが面白いと久しぶりに感じたのだ。ゼロの話を学生の頃に聞いていたら、僕は社会科の教師になっていたかもしれないな、とさえ感じる。

 しかしそれに夢中になりすぎて、肝心なことを聞いていなかったと思い出し、慌てて質問した。

「月野さん……月野先生とゼロさんはどんな関係なのでしょうか?」
 遥か遠い昔のようにも思えるが、おそらくわずか数時間前に、ゼロは月野先生と面識があるような口吻をもらしていたことを思い出す。

「月野先生……月野茜さんですよね? 6年ほど前まで私の仕事を手伝ってもらってたんですよー」

 例によって右手にバインダーを出現させて、ペラペラペラと慣れた手つきでめくっている。そこに月野先生の個人情報がまとめられているのか、と思うと、複雑で身をよじりたくなるような緊張感が体内をかけ巡った。

 僕は「なんで」と発してみたものの、その後に言葉が続かなくなってしまった。

 なんで亡くなったんですかね、とも、なんで観覧車に乗ったんですかね、とも聞いてみたかった。しかしそのどちらも、聞いたところで事実はすでに知ってしまっている。彼女は大阪にあるタワーマンション付近の建物から転落したと、僕は当時の管理職たちから説明を受けていた。観覧車に乗っていたのはおそらくゼロのいう「仕事」を手伝うためなのだろう。それじゃ……

「彼女が死亡したことと、その手伝っていた仕事というのは、何か関係していますか?」

 我ながら良い質問ができたと思った。曖昧な質問には、曖昧な答えしか返ってこない。生徒たちがすぐに漠然と「わかりません」と言ってくるあれと同じだ。教師からしたら、何を教えたら良いのかわからなくなってしまう。気になることは端的に、具体的に尋ねた方が良い。

「ええ、彼女が亡くなったことと、私のお仕事を手伝っていたことは、もちろん関係していますよ。関係していると言っても、因果より相関に近いですがねー」

 僕は言葉に詰まった。まるで、大きな針が喉に刺さって、気を抜くとそのままズルズルと心臓を目掛けて一気に貫いていくような、そんな激痛が走った。自分で聞いておきながら、覚悟が間に合っていなかったようだ。

 彼女はただの事故死ではなかったのか?
 試験時間が残りわずかなのにも関わらず、問題用紙の裏側にも解くべき問題があったことを見つけてしまったような「焦り」が自然と生まれた。

「なんで……なんで、死んでしまったのですか? 死因ってなんなんですか?」
 早口で訊ねるそんな僕の問いに被せて、ゼロが提案してきた。
「それこそが、私からの提案です。円山さん、月野さんの死因について、詳しく調べてみませんか? そうすれば、あなたの人生はもっとよくなりますよ」

 人生を好転させたい、と思うほど今の生活は落ちぶれたと思っていない。
 しかし、なんだろう、使命感だろうか。
 空いた方の拳をぎゅうっと握りしめ、僕は、自分に言い聞かせるように答えていた。

「わかりました、やってみます」

「では次回から、私にお会いしたい場合は、何か目印となるアイテムを持ってきていただけますか? それがパスがわりです」
「パスがわり……?」
「はい、目印のアイテムを持ってきていただくと、こちらとしても判断に便利なので、何卒」
「あの、顔パスにはならないのですか?」

 相談者の顔と名前くらい覚えられるだろ、と思う反面、どの口が言ってるんだと感じ萎縮した。僕が教師を辞めた理由は、生徒の名前と顔が覚えられなくなってしまったからではないか。

「何度かこの観覧車にもご乗車いただくことになると思うので、あるとこちらとしてはありがたいんです」
「何度か……」
 改めて言われて気がついた。そうか、調べたことを報告するためには、この観覧車に乗らなければならないのか。
 こんなにも高い観覧車に何度も乗らなくてはならないと思うと、すでに後悔がはじまりそうだった。

「アイテムは、なんでも結構です。今この場で決めていただいたら、登録しておきます」そう言って、音もなくバインダーが登場する。
「え、え……それじゃあ……」
 深く考えたわけではなかったが、思いつきにしては良い閃きだった。僕は少し顎を突き出して提案した。
 来るときに違和感がなく手軽に持ってこられる、それでいて目印となるくらいに目立つもの。子どもの頃に読んだ記憶があった、おじさんが持っていたもの。

「ほお。承知しました」
 これでよし、とバインダーに記録したゼロは、僕に向けて注意を促した。

「それでは、次回来られるときは必ず傘をお持ちください。あ、あと。まもなくこのゴンドラは通常の・・・スピードに戻ります。くれぐれもお気をつけて」
 そう言い残して、ゼロは音もなく消えた。ゴンドラは揺れていない。ゼロに重力ははたらかないのだろうか。

 景色に正しい色が戻ったと気づく。気づく頃には、僕は装備なしで戦闘機やロケットにでも乗っている感覚になった。とてつもないスピードで音を置き去りにし、僕の体が遠くに放り投げ出されるイメージだ。

 本来ならゴンドラは5分かそこらで9時の位置から12時の位置まで来るはずだ。それが5時間近くに引き延ばされていたのだから、ギャップを埋めようとする復元力や修正力の類は、相応の力だったのだろう。

「5時間は300分だから……5分の……何倍だ?」などと、すぐに時速や所要時間を計算したがる理系の癖を発揮しながら、僕は景色がものすごいスピードで過ぎ去っていくのを必死に目で追っていた。

 電池容量を使い切ったスマホのように、僕は、本日2度目のシャットダウンをした。

<続>

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