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【短編小説】 山の上の美容院

☆鎌倉の丘の上の家を舞台に、認知症の母と娘のある日の出来事を描いた短編小説。6000文字。この小説の中で主人公・陶子が読んだ童話は、別途noteに掲載した童話「かいものかご」です。



山の上の美容院 
      

 プロジェクト決行日の夜、母は兄夫婦に連れられて我が家にやって来た。実行メンバーは、兄の拓海、兄嫁の真理子、夫の優也と私の四人。一か月前から話し合って計画をたてた。二泊三日間分の母の荷物が入ったボストンバッグを兄から受け取り、任務は私達夫婦に引き継がれた。 

 
 「母さんの髪を切ってやってほしいんだ」

 電話口で話す兄の言葉を、すぐには受け止められなかった。兄夫婦と同居している母がなかなか風呂に入らず、頭も洗わず困り果てているというのだ。認知症の老人にはよくあることらしいが、自分では既に入ったと思いこんでいるのか、何度言っても言うことを聞かず、週に一度風呂に入らせるのがやっとだという。普段、実質的に母の面倒を見ている義姉も、無理やり母を捕まえて頭を洗うわけにもいかず、困り果てているというのだ。
 母は今年七十八になる。八年前に父が他界し本牧の家を売却すると、港北ニュータウンに住む長男夫婦と孫の海人と同居するようになった。最初は家族の戦力として育児家事への出番も多かったが、海人が小学生になり子育ても手がかからなくなると、義姉は働きに外へ出るようになった。母は近所に知り合いもなく、外出も減り、やがて家にこもるようになった。認知症らしき症状を発症するのに、それほど時間はかからなかった。それでも、健康面では大きな問題もなく、三食しっかり食べてよく寝る生活をおくっていることが救いであった。母は最低限の身の回りの事は、一通り自分で行えたのだ。  

 一年前、私達家族は十年間の駐在生活を終え、香港から帰国すると鎌倉に移り住んだ。私は昼間の母が一人の時間帯に、仕事と時間をやりくりして母の様子を見に出かけていた。それなのに、兄からのあの電話まで母の異変に気づかなかった事実が胸を刺す。やはり、月に一、二度たまに会うのと毎日一緒に暮らすのでは意味が違うのだ。それに、兄の話す内容から、これまで母が私に多くの嘘をついていた事を知り(本人はたとえ無自覚だとしても)、目の前の現実に愕然とした。 

 「髪も短く切れば洗うのも乾かすのも楽になるし、美容院に行こうと言っても行かないって言いはるんだよ。母さん、頑固でわがままなところはちっとも変わらないからなあ。いや、ボケ始めてからは変なことに意固地になるんだよ。真理子の言う事もちっとも聞かないし、あいつは癇癪起して出て行くって喚くし、海人は反抗期だし、まったく困ったよ。陶子なら、まあ、実の娘の言う事なら、母さんも少しは素直に聞くかと思ってさ。お前も少し、きつく言ってやってくれよ」
 兄は日頃のストレスを一気に吐き出すように概要をまくしたてた。
「うん、わかった。じゃあ、気分転換にもなるだろうし、体調が良ければ家に泊まりに連れてきてよ。今月最後の週の土日は?愛子がちょうど修学旅行へ行って留守だから、あの子の部屋を使えるし」
 そんな会話を兄妹で交わしてから、一か月、散髪計画に向けて私達は準備をした。兄と義姉は母の健康管理をしながら通院日を調整し、三日前からは機嫌をとりながら、母を外出する気にさせるために腐心した。私のほうはというと、同じく三日前から毎日昼と夜、一日に二度、母に電話をしては、毎回初めて言うかのような調子で遊びに来てねと繰り返した。夫は散髪用の髪切りハサミセット、ケープをアマゾンで購入した。そうして事前に準備した後、やっと迎えたプロジェクト決行日だった。 
 

 さて、兄夫婦を玄関で見送ってから、母と夫と私の三人でお菓子を食べてお茶を飲み、ひとまず他愛のない話をして過ごした。時刻は午後八時。そろそろいいかな。頃合いを見計らって、優也に目配せしてから私が口火を切った。 
「お母さん、お風呂に入る?私が髪を洗って、きれいに切ってあげるよ」
「え、お風呂?だいじょうぶよ。家で入って来たから」
「じゃあ、お風呂は今日は入ったなら明日でもいいけど、頭を洗っていないでしょ。髪が伸びているし、今、切ってあげる。洗面台で椅子に座ったままシャワーできるよ」
「いいの、大丈夫、一人でできるから」
「美容院へ行って切るのは大変だろうし、今、私が洗面台でできるから。髪を短くすれば洗うのも乾かすのも楽になるし」          「いいの。入らない」           

 無意味な押し問答が続く。こめかみの辺りがチリチリと熱を帯びた。義姉からは事前に、母がもう一週間風呂に入っていない、何度言っても、もう入ったからいい、いやだと言うのだと聞いていた。母が面倒くさくて嘘をついているのか、あるいは本当に既に風呂に入ったと思いこんでいるのかは分からない。ふつふつと湧いてくる理不尽な怒りを押し殺していた私の中で糸がぷつんと切れた。
「入れって言ってるの!いいから、文句を言わずに入ればいいの!」 
 私は声を荒げた。びくりと母が叱られた子犬のように縮こまる。大声を聞きつけてキッチンから戻ってきた優也が、間に入って二人をなだめた。
「陶子、もういいよ。お義母さん、明日、ゆっくりお風呂に入って、それから髪を切りましょうか。ここのお風呂、富士山が見えて気持ちがいいですよ。この富士山と海の景色がお客さんみんなから評判なんですよ」 
 そうして、計画は明日に持ち越しになった。優也がその場をとりなすように穏やかに提案した。
「お義母さん、映画でも観ますか?あ、『ローマの休日』はどうですか?お義母さんが好きな映画だって、陶子から聞いてますよ」
 優也がDVDを書斎から引っ張り出してきた。興味なさげな様子の母に違和感を感じながらも三人で座って映画を観はじめた。ふと気づくと、母は座ったまま目を閉じて、ゆらゆらと船を漕いでいる。今日は車で移動して疲れたのだろう。優也は母を起こして促すと、二階の愛子の部屋へ連れて行った。残された私は一人、テレビの画面を見つめた。母が好きだったオードリー・ヘプバーンーー。オードリー扮する「アン王女」の髪を理髪師が大胆にカットしていく。ショートヘアの別人に生まれ変わった王女が、天使と見紛う笑顔を見せた。

 母を寝かせて戻ってきた優也がソファに座ると静かに言った。
「お義母さん、もう複雑な話はわからないし、途中ですぐに興味が無くなってしまうのだろうね。いろんなことを長く覚えていられないから、映画のストーリーが追えないんじゃないかな」

 つけっぱなしの映画をぼんやりと見ながら、私は思う。母はオシャレな人だった。ついこの間まで――こんなふうになる前までは。

 母は服飾専門学校を卒業後、兄の拓海が生まれるまではパタンナーをしてアパレル会社で働いていたと聞いた。子供の頃には私のワンピースをたくさん作ってくれた。あの頃に見たスナップ写真の中の若い母は、流行りのミニスカートにブーツをさっそうと着こなしていて、モデルのようでかっこよかった。母は私が小学校3年生になると、昔の洋裁仲間が経営するブティックで、洋服のリフォームやセミオーダーを担当するスタッフとして働き始めた。いつもきりりと髪をタイトに結いあげ太いアイラインと赤い口紅を施し、ワンピースやスーツを着こなした母は、授業参観に来ても子供たちが振り返ってざわめくほど、ずらりと並んだ母親たちの中で一際あか抜けていた。そんなおしゃれで粋な母が、子供ながらに自慢だった。その母が、伸びきって乱れ放題の髪をだらしなくまとめ、ルーズなスエットの部屋着姿で背中を丸めて毎日テレビの前でぼんやり座っているという。それは、娘にとっては正視し難く、にわかには受け入れられない辛い姿だった。

 それでも、母の中で「あの頃の母」がまだ生きていることを私は知っている。その証拠に、私が訪ねて行くたびに、母は私の服装や髪などをよく褒めた。
「あら、陶子、そのスカート素敵な柄ね」
「髪の毛、似合っているわね。陶子は小柄だから短いのが良く似合う」
そう言って、風呂に入るのを忘れる人とは思えないほど、以前と同じように私の身なりには関心を示していた。兄夫婦を責めるつもりはない。いや、感謝している。それでも――。髪ぐらい、毎日きれいに洗ってきちんと結ってあげてくれればよかったのに。娘の私がいつも一緒にいてあげられたら、違う今があったのかもしれない。香港駐在中の十年間の不在期間を思うと、後悔と自責の思いが胸にせりあがってくるのだった。
 

 翌朝は初夏のこの時期の鎌倉にしては珍しく、すっきりと霧が晴れ、雲ひとつ無い快晴だった。てっぺんの雪がほぼ消えた黒い山肌の富士山がリビングの窓から見える。
「富士山、あれ、雪が無いわねえ」
母が起きてくると大きな声で言った。今朝は機嫌がよさそうだ。それから、三人で朝食を済ませてから、母を入浴させることにしたた。母は今度は素直に私の言うことに従った。

 洗面所に高さの調節できるガス圧式のアームチェアーを運び、洗面台の前にセットした。今日のために事前に通販で購入した散髪用のハサミセット一式と銀色のケープを用意する。ケープは切った髪が下に落ちないように、裾にワイヤーが入り、末端が袋状になっている。母にかぶせると、愛子が小さかった頃、何度かこんなふうに髪をカットしたことがあったっけと思い出した。
 母を洗面台に屈ませて、シャワーで髪全体を濡らすと、伸び放題の髪が白い洗面台にふわりと広がる。シャンプー剤をつけて泡立て、大きなカボチャを洗うようにゴシゴシと洗った。 
「ああ、気持ちがいいね。美容院みたいだねえ」
「そうでしょう、私、シャンプー上手なのよ」 得意げに答えながらシャワーヘッドを左手に、お湯を頭にかけて泡を少しづつ流した。母の身体を起して、髪全体をタオルでくるむ。そして、トントンと軽く水気を拭いてから、くしで丁寧にとかしていく。根本で髪の毛がダマになってしまった部分にくしがひっかかった。母は正面の鏡を見たまま、自分でとれなくて、と言った。そうか、年を取ったら腕も高くは上がらない。絡んだ髪をほどくのも、長い髪を洗うのも母には一苦労だったことだろうーー。そう気づくと、胸を掴まれるようだった。
「陶子、上手だねえ。美容師みたいだねえ」
 目を閉じて、母が満足気に言った。髪の根元のほうにできてしまっていた大きな絡みを、丁寧に少しづつ、くしで梳いていく。いよいよ、腰まであった髪を顎の線までざっくりと切る。私はハサミに神経を集中させた。額に汗がにじむ。ジャキン。力を込めてハサミを握った。髪の束が散髪ケープの斜面を素早く滑ってから、ボタリとくぼみに落ちた。続いて、私の目の表面に辛うじて留まっていた物がポタリと一滴、小さく音をたてて母の右肩を打った。母は黙って目を閉じている。ジャキン、ボタリ。ジャキン、ボタリ。厳かな儀式のように髪を切る音だけが、静かに響いた。

「見てごらん、ほら、軽くなった」
私は左手で頬を拭ってから、母に声をかけた。
「わあ、ホントだ、さっぱりした。陶子、上手ねえ、素敵だわあ!」 
 洗面台の大きな鏡には軽快なショートボブに変身して見違えた母と私の姿が映っていた。表情まで明るくなった母が、何度もありがとうと繰り返した。
「ここは山の上の美容院だねえ」       母が独り言のようにつぶやいた。      「山の上の美容院?いいね。お客は一人、三食、お風呂、昼寝つき。富士山ビュー」
私が笑って答える。そうか、うちは山の上の美容院か、何て素敵な美容院だろう。

 それから母は、昼食もとらず、随分と長く眠った。ようやく起きてきたのは、リビングにはちょうど西日が差しこむ日没の頃だった。母がコーヒーテーブルの上の本を何気なく手に取るのを見て、ふと思いついて私が言った。
「ねえ、お母さん、私が作った童話、読んであげようか?」
 私は趣味で童話を書いていた。つい最近、鎌倉の海にくじらが打ち上げられて、それをモチーフにしたお話を書いたばかりだ。誰かに聞かせたかったし、童話なら、お話もシンプルで短くて分かりやすい。しかも、登場人物のモデルとして、母と甥っ子の海人を登場させていた。
「お母さんと海人も出てくるよ。あと、昔、私が小さい時に住んでた団地の近所の、あのお肉屋さん、覚えてる?あのおじさんも出てくるの」 
そう言って、書斎の机の上から原稿を持って来ると、私は童話を読み始めた――。


 一体、これは、魔法が解けたのだろうか?突然に、母の瞳に光が戻った。時が止まって、いや、私たちは過去の世界に戻ったのだろうか? 母は正気を取り戻したかのようにしゃんと座り、頬は赤みを帯び、じっと私の声に集中して聴き入っている。時折り頷いてうんうんと言いながら、物語に合わせて笑っている――。
 私は不思議な気持ちのまま、童話を読み終えた。母が声を弾ませた。 
「陶子!わあ、お肉屋さんのおじさん、懐かしいわ。あのお店の前の風景がぱあっと頭に浮かんできて…」
母は、以前の母のようだった。はっきりとした口調で饒舌になり、瞳は黒々と焦点を定め、輝きを放っていた。ああ、奇跡が起きたのか?それとも、これまでのことは何もかも、悪い夢だったのだろうか?             

「夕陽が...」

 興奮した様子の母と動転した自分の気持ちを落ち着けるために、私は言った。窓の外の西の空は一面ドラマチックに焼けていた。日没までの時間、この部屋は夕焼け劇場の特等席だ。刻々と表情を変える赤い空、鎌倉の海と山、大地と空の荘厳な共演をしばし黙って、三人で見つめた。

「きれいだねえ。真っ赤な夕焼け」

母は何度も繰り返した。夕陽が反射して、グラデーションに染まる母の横顔を見ながら、私は思う。次の童話の題名は今、決めた。「山の上の美容院」にしよう。主人公は母、山の上の美容室に髪を切りにやって来る。富士山と海が見える部屋で、お風呂があって、シェフがいて、美味しいごちそうも食べられる。そして、また母に読んであげるんだ。ああ、なぜ気づかなかったのだろう。老人は、老いて物が分からなくなるのではない。五感が、魂が研ぎ澄まされていくんだ。母は子供の頃に誰もがしていたように、こんなにも、純粋な目で見て、聞いて、感じて、素直な言葉を話しているんだけなんだ。

 「サンマみたいね、あの雲。おいしそう」

私の心の内など知る由もない母が、突拍子もなく無邪気に言った。その声は、既に、いつもの口調に戻っていた。

「サンマ雲か。昔、そんな題名の話があったなあ。雲の上に子供達が乗っかるやつ」
優也も口を開いた。

「それはくじらでしょ、くじら雲」

 三人で笑った。それは、ほんのつかの間の、神様がくれた一瞬の奇跡にすぎなかったけれど、そんなことは、もう、私にとって問題ではなかった。今は、「目の前の今」が、こんなにも愛おしかった。夕陽が滲んで七色に反射した。

 山の上の美容院のサンセットショーはまだまだ続く。短く切りそろえた母の白い髪が、刻々と陰影を変化させながら、ゆっくりと、艶やかなオレンジ色に染まっていく。 


山の上の美容院 /茉莉花 文・写真 (2020年5月執筆)

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