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【うちがわ】

   「覆水盆に返らず」
一度してしまった事は取り返しがつかないこと、しかし元は「離縁した夫婦仲が戻ることはない」の意が転じたものだそうです。

これは数年前の話です。
当時僕は都心から離れた住宅街に住んでいました。休日の朝、いつもの散歩コースを歩いていると、おやここはこんなに開けていたかな、という道に出ました。

違和感の正体、それは曲がり角にあった祠、その敷地が更地になっていることでした。
いつもなら、軽自動車がギリギリ一台入れるくらいの土地に祠と小さな鳥居、そしてそれらを覆う木々が植えられていたはずです。

更地というのは正確ではありません。新しげな砂利が敷き詰められた土地、そこに鳥居だけがポツンと残されていました。
そこでまた違和感です。
歩を進めながら考えていたのは、「残すのは祠の方ではないのか?」という事です。
神道の事は詳しく分かりませんが直感的に、建て替えるにしろ移動するにしろ、最後に残すのは神様が祀られる祠本体ではないのか?と。

気になったので帰って調べてみました。
祠を移転又は撤去する為取り壊す際、その職の方を呼んで"御霊抜き"をすれば祠はただの建物になり取り壊しても問題ない、とのこと。
しかし「鳥居を残す」というものはいくら調べてもヒットしません。
その時点でもう眠くなっていた僕は「祠を建て直す事になったが最近作り替えたばかりの鳥居は残したのだろう」と結論づけて寝ることにしました。

話は変わり、私事で申し訳ないのですが当時僕はその住宅街の二階建てマンションで妻とふたり暮らしていました。仲睦まじいとまではいきませんがそれなりに上手くやっていたと思います。
結婚を期にこの町へ引越し、一年の月日が流れた頃です。妻の心が調子をきたすようになりました。職場の仕事関係が原因です。
転職を勧めても、苦労して入った会社だからと聞く耳を持ちません。心療内科の受診も拒む一方です。

日に日に夫婦の諍いが増えていきました。妻も辛いことはわかっていたのです。しかし仕事は上手くいかず、帰ればケンカ、僕も限界に近づいていました。家から逃げるように同僚と飲み歩き、その日も最寄り駅に着いたのは夜も更けた頃でした。
今は鳥居のみの曲がり角に差しかかった時、妻からメールが届きました。内容は僕が当番の家事を忘れたせいで大変な思いをした、というもの。
瞬間、僕は頭に血が上り力任せに鳥居を蹴り上げていました。いくいくつものどろどろした感情が体中を駆け巡るのがわかりました。

今思えば、アルコールが入っているとはいえ幼稚で野蛮な行為です。ただ事実を伝えて反省を促すメールを嫌味と捉えるほど僕の精神状態も尋常では無かったのでしょう。
それからどのように家に帰り、床に就いたのか記憶はありません。

翌日の寝覚めの悪さは想像を絶するものでした。全ての体毛が高速で逆撫でされているような悪寒。全ての体液が中でぐちゃぐちゃにかき混ぜられている感覚に込み上げる吐き気。激痛で開かぬまぶたをむりやり開いた目は何にも焦点が合いません。耳をつんざくなんとも形容しがたい不快音。四肢が捻れもげる感覚。なんとか立ち上がりもたれかかろうとした柱はそこにありませんでした。耐え難い苦痛に、僕は僕を僕たらしめる全てと、さようならをしました。

   鳥居は人の世とほかの世の境界。人が不浄を持ち込む事を防ぐ結界です。
    同時に人ならざるものが人の世に干渉しない為の檻です。鳥居そのものを依り代とする事もあるとか。
   僕はあの時そこにいた何か大変なものを解き放ってしまったのでしょう。

絶対にそうだ。

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