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平凡な日々をどう生きるか

「変わり映えのしない日常への不満・閉塞感」

二十歳前後にはほとんど考えもしなかったこの感情。長年仕事を続け年齢を重ねるにつれ、グレーかかった重苦しい冬の雲のような感情が心にのしかかってくることが増えてきた。

ただただ次の休日が訪れるのを指折り数えながら、仕事が続く平日が過ぎ去るのを待つ。いや、最近は何も考えないようにしながら、平日が終わるのを待っているという感じだ。

特に苦手な通勤の間は、気がついたら職場に着いていることを狙って、思考や感覚のスイッチを完全に落とす。ヘッドフォンを装着して、無駄なノイズを排除する。けたたましい駅のアナウンスや電車の発車ベル。そういうものと明確に距離をとる。いつもの乗車位置から電車に乗り込み、いつものように網棚に荷物を載せ、いつものように少しでも人混みの少ないルートを歩き、いつものコンビニで昼食を買う。こうした一連の行動を、何も判断や思考を介在させずに「自動的に」済ませること。これで苦手な通勤をやり過ごしている。

職場に着いたら徐々にエンジンがかかってくるので、その勢いに任せて仕事をこなす。仕事自体は楽しくやれているので、特に不満はない。これがせめてもの救いだ。

帰路は通勤よりは気が楽だけれど、できるだけ早く帰宅したいので、寄り道もしない。梅田にはいろんな店があるし、仕事帰りにショッピングしたらそれなりに楽しいだろう。しかし、一刻も早く帰宅したい気持ちが勝り、滅多に途中下車はしない。

そんなこんなで一日が終わりを迎える。ほっとはするが、月〜木までは翌日も仕事があるので、心は昂ぶらない。しかし、金曜日の夕方にたどり着いた時の解放感。これはたまらない。

こうやって、知らぬ間に季節がめぐってゆく。そのことに何の不思議も抱かずに、仕事や趣味に打ち込んでいる方も多いのだろうか。少なくとも僕はそうではない。そうすると、考えごとをする時間が生まれる。いや、生まれてしまう。そして、ただ流されるように時間が過ぎていくことを改めて意識した時、「これでいいのだろうか」ととても怖くなる。

贅沢な悩みである。というのも僕は、ほんの数年前は起きることすらままならなかったのだ。仕事のストレスで完全にメンタルの調子を崩し、仕事はおろか日常生活も難しかった。少しずつ復調してきた時、出勤の「練習」を始めた。目覚ましとともに起き、身支度をし、朝食を摂り、バスに乗る。駅に着いたら、先ほど降りたばかりのバスに乗り戻る。そして帰宅。部屋着に着替えて落ち着くと、「なぜこんなレベルの低いことをやっているのか…」と情けない思いに押しつぶされそうになった。

そんな頃を乗り越えて、1年間普通に勤務をこなすことができるようになった。周りはどんどん先に進んでいき、自分は置いていかれたと落ち込むこともあるけれど、何とか命を繋いで生きてくることができた。

今の部署の2年目が始まったばかり。相変わらず往生際の悪いプライドのせいで自分の首を絞めることがあるが、きっと徐々に落ち着いてくるはずだ。そう信じて、目の前の日々を大切に生きていきたい。

平凡な日々をどう生きるか。


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