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【よき時代の始まり】森会長「女性蔑視発言」の真相と「白色の抗議」──女性性が尊重される時代への変わり目

 ただ今、日本では一切腕力を使わない「静かなる革命」が進行しているかのよう。
 革命というのは物々しいたとえだが、要は今起こっている一連の出来事が、人々の集合意識に根強く刷り込まれていた「価値観の変革・変容」を促しているということ。
 つまり、古くは弥生時代から数えて2千年以上も不動だった「男性原理が支配する社会システム」の終了を告げるような、象徴的な出来事だと言えるのだ。

 「女性が入ると時間がかかる」の真相

 コトの発端は、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の会長である森喜朗氏が、2月3日に開かれた臨時評議員会の席上で、「文科省が女性理事を選べとうるさく言う。だけど、女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と発言したこと。
 特にこの後半部分が【女性蔑視発言】として国の内外から公式の批判が相次いだため、その翌日には森氏は問題発言の撤回と謝罪をしたものの、なお会長として留まり続けていることから、批判のムーブメントが収まらなくなった。

 ここで見逃してはならないのは、森氏の発言が、単に彼個人の不勉強や不見識によるものではなく、おそらく彼自身が当たり前と思って疑うことができなくなっている「旧来の社会システム」にどっぷり浸かっている人々のホンネが、素直に露呈されたものだということ。

 そもそも「女性が増えると会議の時間がかかる」と森氏が思い込んでいるのは、単に旧来の男性社会では、「ボスを頂点とするピラミッド型の指示命令系統に従うことが、組織人として正しい」という“暗黙の了解”がまかり通っていたため、本来あるべき議論を省略して「なぁなぁ」で短く済ませていた、ということだろう。いわゆる「談合」「忖度(そんたく)」に頼っていたということで、旧弊に染まっていない女性理事が、それをやらずに公正な議論を展開しようとした行動が、「時間がかかる」という曲解を生んだ。とんだ認識不足である。
 おそらく背景に「これだから女はダメだ」という深層意識があるために、解釈にバイアスがかかってしまうのだと言える。

 「男尊女卑の思考回路」という役に立たなくなったシステム

 とは言え、この歪んだ認識は、森氏1人だけの問題ではない。
 実際、かつての家父長制の習慣を引きずる「男尊女卑の思考回路」は、今のシニア層だけでなく、彼らに育てられた40代から30代までの比較的若い世代にも引き継がれていたりする。
「男がエライ」という価値観を吹き込まれた女性は、自己肯定感が低くなり、自分の可能性を小さく見積もる選択をしがちである。中には、女に生まれたことで親をガッカリさせたことがトラウマとなっている女性も珍しくない。

 確かに、人々の生存環境が不安定だった時代には、力の強い男性が上に立ち、家来や女性を従えて、縄張りを広げていくという社会システムは、外敵から身を守るための、一村・一国のサバイバル戦略としては有効だったのだ。
 けれども、その必要性があった時代は遠い昔となったにもかかわらず、「もはや役に立たなくなったオペレーション・システム(OS)が、未だに取り除かれずに社会の中枢に居座っていた」という事実が、森氏を通して白日のもとにさらされたのだと言えよう。

 色をまとう「あり方」で自己主張した意義

 2月9日には、IOC(国際オリンピック委員会)までが、森氏の発言は「完全に不適切」と異例の批判声明を出すという、内輪のポカでは済まない、世界規模の事件へと発展した。
 また、同じ日の国会衆院本会議と予算委員会では、森氏の発言への抗議の証として、野党の女性議員が一斉に白いジャケット姿で、胸には白バラを挿して出席し、これに賛同する男性議員もまた、やはり胸に白バラや白いポケットチーフを挿すなどして援護する姿が見られた。

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(東京新聞・2021年2月10日付)

 この“戦い方”は、スタイリッシュで美しいではないか。
 怒りの赤でも威圧の黒でもなく、曇りなき正当性を静かに表明する、清冽な白。
 
声高に叫んで飛沫を飛ばし合う愚も犯さず、ただそこに凛として居る存在感だけで、人は強く自己主張ができるという手本を示しているかのよう。

 腕力や地位の高さ、声の大きさで相手をねじ伏せるのではなく、「あり方」で主張を示すというスタイルは、女性性(※生物的な性別とは別の精神的な性質)の要素が強いやり方だと言える。
 つい数年前まで、国会では嘆かわしくも口汚い野次の応酬が盛んにおこなわれ、かつては場外乱闘も度々起こってきたのとは大違いだ。
 このことはまさに、私たちの社会では、男女を問わず人間性の中の「女性性」の要素が優位に働く時代へと移行しつつあることを物語っている。

 コロナ禍がもたらした日本人の「洗練」

 実のところ、こうしたアイデアが考え出されたのも、昨2020年1月にコロナ禍が始まって以来のこの1年間で、私たちが他者とソーシャルディスタンスを保ち、マスクで口角泡を飛ばすふるまいを控えるという、新しいマナーを身につけてきた“訓練”の賜物だと言える。
 そう、日本人はこの1年間で、社会人として「洗練」されつつあるのである。

 この数年、地位の高い人々の愚かなふるまいが槍玉に挙げられる事件が、かつてないほど増えている。そして、それに対して一般の人々がSNSやネット署名などを通じて一斉に抗議することで、実際に不公正な法案の採決が見送られたり、役職を降ろされたり、現実を動かす事例が相次いでいる。
 1980年代以降、日本人は他の国々の人たちと違って、お上に従順で何をされてもデモ行動に消極的、という自虐的なあきらめ意識が蔓延し続けていたけれど、最近になって、腕力に訴えずに、このような「静かなる抗議の炎上」によって、現実の軌道修正が起こり続けていることを評価してもいいのではないか。

 価値観交代のスイッチが押された

 白色の抗議の舞台裏では、野党の女性議員の代表たちが、与党・自民党の女性大臣である、橋本聖子女性活躍担当相と面会し、森氏の辞任や、女性差別の撤廃、男女共同参画のさらなる推進を申し入れたという。
 女性のトップ同士で、立場を超えて政治的な話し合いの場が持たれたことに、「男性が席巻する社会」が終わろうとする兆しが感じられる。

 力で相手を服従させようとするやり方は、自然と戦い、搾取しながら縄張りを拡大してきた、男性原理による社会のスタンダードだった。
 しかし今、歴史の必然的な要請として、人類は自然界と共存共栄しながら、誰とも戦わずに認め合おうとする「母性的な女性原理」を社会のスタンダードにしないことには、前に進めなくなっている。

 そんな中で、今回の一連の出来事は、古い時代の因習が根強く残っていた日本の社会にも、「主流となる価値観の交代」にスイッチが押されるための起爆剤の働きをしたのではないか。
 これまで力でねじ伏せられてきた「公正さ」が社会の「当たり前」となっていきそうな、よき時代の始まりを告げているように感じている。

(夏目祭子)

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